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東京に「座るにも金が要る街」が増えた本質理由 疲れてもカフェに入れず途方に暮れるあなたへ

東洋経済オンライン / 2024年11月6日 8時30分

五十嵐によれば、こうしたオブジェは1990年代後半から街で見られるようになったという。その理由を五十嵐は次のようにまとめる。

1990年代後半から、オウム真理教による地下鉄サリン事件を契機に、日本では他者への不寛容とセキュリティ意識が増大し、監視カメラが普及するのと並行しながら、こうした排除形のアートやベンチが出現した。(『誰のための排除アート? 不寛容と自己責任論』p.21/2022年・岩波書店)

排除アートは、街の治安向上や、人々の防犯意識の高まりを反映しているのだ。

誰のための排除アートなのか?

特に渋谷に限っていえば、もともと1990年代あたりの渋谷は「ジベタリアン」の聖地ともいわれる街だった。もはや死語だが、ジベタリアンとは「地べたに座る人々」のことで、センター街を中心にそこらじゅうに若者が座ってたむろしていた。

この光景が変わり始めるのが、2003年あたり。当時の石原都政化で、新宿歌舞伎町を中心とした「浄化作戦」が行われ、クリーンな街並みが目指されていく。まさに人々の防犯意識の高まりを反映した政策だった。そして、それと連動する形で排除アートが増えてきた。

もちろん、この流れを否定するわけではない。治安や防犯の観点から考えれば当然の流れだろう。実際、チーマーが街を闊歩し、ジベタリアンが街を占拠し、公園には多くのホームレスがいたかつての渋谷に、治安の悪さを感じていた人は多いはずだ。

しかし問題は、その結果として、本来ベンチや広場が持っていた「座れる場所」「休める場所」の機能が著しく低下してしまっていることである。治安向上の目的が先走りすぎ、そもそも、疲れた時に気軽にベンチに座ったり、広場でたむろすることができなくなっているのだ。

五十嵐は、こうした排除アートの存在について「誰かを排除するベンチではなく、まさに誰もが座りにくいベンチ。そのことを問題にすべきだ」と指摘する(2024年4月10日「SNSで広がった「意地悪ベンチ」論争 排除の対象はホームレス?酔っぱらい?それとも…」/東京新聞)。

③ 日本人の意識の変化

もう1つの理由は、都市そのものというより私たちの意識の問題だ。日本の街が「座りにくい」のは、日本人の「周りからの目」を気にする性質もあるかもしれない。

今、渋谷の街にあるベンチに座るのは多くがインバウンド観光客だし、彼らはパルコ前にある階段、ガードレールかのような物体などにも腰掛けていて、貪欲に座るところを見つけている。彼らを見ていると、渋谷は決して座る場所がないわけではない。「いじわる」に、鈍感になることができれば、座ることはできるのだ。

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