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「紫式部の日記」に記された"明らかに異質な箇所" 突如手紙文体に、誰かに向けて書かれたもの?

東洋経済オンライン / 2024年12月1日 7時40分

式部ゆかりの京都・廬山寺(写真: farmer / PIXTA)

間もなく最終回を迎えるNHK大河ドラマ「光る君へ」。放送をきっかけに平安時代にスポットライトがあたることになった。世界最古の長編物語の一つである『源氏物語』の作者として知られる紫式部は、誰もがその名を知りながらも、どんな人生を送ったかは意外と知られていない。紫式部が『源氏物語』を書くきっかけをつくったのが、藤原道長である。紫式部と藤原道長、そして二人を取り巻く人間関係はどのようなものだったのか。平安時代を生きる人々の暮らしや価値観なども合わせて、この連載で解説を行っていきたい。連載第47回は紫式部日記に書かれた、式部の変化について紐解く。

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『紫式部日記』は誰に向けて書かれたものか?

歴史上の人物について調べるときに、本人が残した日記があれば、貴重な史料となる。しかし、どれだけ詳細な日記でもその人の最期については知ることはできない。

【写真で見る】式部の娘、大弐三位(賢子)の百人一首

『源氏物語』の作者・紫式部は、生年については諸説あり、天禄元(970)年とする説もあれば、天延元(973)年とする説もある。本名もわかっていない。

没年についてもはっきりしておらず、最短で長和3(1014)年、最長で長元4(1031)年とされている。説によってかなりの幅があるが、40代半ばから60代を迎える頃までに亡くなったようだ。

わからないことだらけの式部だが、筆マメな藤原実資が、長和2(1013)年5月25日の日記『小右記』に「今朝帰り来たりて云わく、去んぬる夜、女房に相逢う」と記し、この女房のことを「越後守為時の娘」と説明している。のちに「紫式部」と呼ばれる女性が実存していたことは確からしい。

そんな式部だけに、彼女が自身の日記を残していることの意義は大きい。藤原道長の娘で、一条天皇の中宮となった彰子にどんなふうに仕えていたのか。また、式部を取り巻く宮中での出来事や、彼女の心境の変化など、日記から多くのことが読み取れる。

ただし、のちに『紫式部日記』と呼ばれるこの日記は、単に日々の記録を残すものではない。少なくともそのなかの一部は、ある特定の人物に向けて残されたものではないか、と言われている。

異質なパートがある『紫式部日記』

2巻にわたる『紫式部日記』の内容は、大きく分けて4つ。冒頭は「秋のけはひ入りたつままに、土御門殿のありさま、いはむかたなくをかし」とあり、秋の訪れとともに、中宮・彰子の出産が近づき、土御門邸の様子が慌ただしくなってきたことを描写している。

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