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道長の子「藤原頼通」51年の長期政権築けた背景 期待を注がれる一方で、荷が重かった部分も

東洋経済オンライン / 2024年12月15日 7時50分

宇治朝霧橋(写真:奈良観光 / PIXTA)

ついに最終回を迎えるNHK大河ドラマ「光る君へ」。放送をきっかけに平安時代にスポットライトがあたることになった。世界最古の長編物語の一つである『源氏物語』の作者として知られる紫式部は、誰もがその名を知りながらも、どんな人生を送ったかは意外と知られていない。紫式部が『源氏物語』を書くきっかけをつくったのが、藤原道長である。紫式部と藤原道長、そして二人を取り巻く人間関係はどのようなものだったのか。平安時代を生きる人々の暮らしや価値観なども合わせて、この連載で解説を行っていきたい。連載第49回は道長の息子、頼通が長期政権を築けた背景を解説する。

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気まずい事件で「頼通が後継者だ」と浸透する

藤原頼通は正暦3(992)年に、藤原道長の長男として生まれた。道長が当時の左大臣・源雅信の娘である2歳年上の倫子と永延元(987)年に結婚し、6年目に授かった嫡男である。

道長の子、藤原頼通は摂政の座に就き、後一条天皇を支える。写真は後一条天皇陵

頼通が生まれた時期は、道長の兄・道隆が父の兼家の後継者として、関白・摂政となった頃である。道隆が嫡男の伊周を露骨に引き上げるなかで、道長は頼通という跡継ぎを得たことになる。

道長は倫子と結婚してすぐに、故左大臣・源高明の娘である明子も妻とした。倫子とは2男4女、明子とは4男2女をもうけている。

そのなかでも、道長の後継者はやはり頼通なのだと、周囲が強く実感した出来事があった。それは長保3(1001)年、道長の姉で一条天皇の母である藤原詮子の「四十の算賀」が、道長の土御門邸で行われたときのことである。

一条天皇や中宮の彰子も招かれるなかで、童の舞が披露された。舞った子どもは、道長が倫子との間にもうけた当時10歳の長男・頼通と、もう一人の妻・明子との間にもうけた当時9歳の次男・頼宗である。

それぞれが「陵王」と「納蘇利」(なそり)の舞を行ったところ、一条天皇は頼宗の納蘇利のほうに心を動かされた。褒美として頼宗に舞を教えた師匠には、五位の栄爵が与えられることになった。そんな顛末を見て、道長は憤慨。その場から退出してしまったという。

道長が怒った理由について、藤原実資は『小右記』で次のように書いている。

「兄は既に愛子であって、中宮の弟、当腹の長子。納蘇利は外腹の子。その愛はやはり浅い」

「兄」とは頼通、「当腹」(むかいばら)とは倫子、「外腹」(そとばら)とは明子のことだ。倫子との間に生まれた頼通と、嫡妻ではない明子の子とでは、父である道長が注ぐ愛情にも違いがあり、道長としては頼通の舞いを評価してほしかったというわけだ。

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