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「ジミー・ペイジ」になりきり続けた彼の凄い半生 本人とも対面が実現!ジミー桜井の生き方

東洋経済オンライン / 2025年1月11日 9時10分

――映画では、ジミーさんの活動のいいときだけでなく、つらかった時期にもしっかりと密着していました。

ピーターからすれば、最初はそんなつもりじゃなかったんでしょうね。日本から来た男がなかなかアメリカ人にウケているじゃないかということで、トリビュートバンドをテーマにした映画を撮り始めたんだと思います。

ただそこから次第にバンドのメンバーたちとも意見が合わなくなり、難しい時期を過ごしていくわけですが、そうした時期も彼は淡々と撮り続けた。

それと彼自身、レッド・ツェッペリンの大ファンでもあるんです。カメラが回っていないところで、いろいろと僕を元気づけてもくれました。僕が悩んでるときも、常に隣にいてくれた。だから今は本当に仲のいい友達になりました。

――もともとジミーさんは楽器メーカーなどでサラリーマンをされていたそうですが、バンド活動を続けていくうえで、サラリーマン経験が役立ったことはありますでしょうか?

それがなかったら無理でした。僕の場合は、まず本物の楽器から音づくりのヒントを得ることが大事なプロセスでした。(ジミー・ペイジの愛器として名高い)59年製レスポールはいつでもどこでも旅に持っていけるものではないので、現行で手に入るものの中から厳選されたいいものを持たなきゃいけない。

ですが、その中でも本物との違いがわからなければ、本物に近づけることはできない。やはり楽器を買うのにも、衣装を用意するのにも、ピックアップのコイルを巻き直したり、アンプをモディファイするのにもお金が必要となる。それはサラリーマンとしての生活があったからこそできたことだと思います。

高校を卒業してすぐ、僕は東京の呉服問屋に就職したんです。そのときは仕事をしながら音楽をやっていけばいいやと思ったのですが、そんなに甘いものではなかった。

まったく音楽ができない日々が続いていたのですが、高校時代のバンド仲間がまた一緒に音楽をやろうというので一度、仕事を辞めて郷里に戻りました。

そこで音楽を再度はじめるわけですが、田舎での活動にも限界を感じ、もう一度上京を決意して、今度は楽器業界で働くことになりました。楽器業界というのは音楽業界と直結しているので、それがよかったですね。

会社の社長は現役のミュージシャンなんですが、僕の音楽活動にも理解を示してくれて、諸手を挙げて応援してくれた。もちろん仕事はしっかりとしてましたけどね(笑)。

脱サラしてアメリカに渡る

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