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「ジミー・ペイジ」になりきり続けた彼の凄い半生 本人とも対面が実現!ジミー桜井の生き方

東洋経済オンライン / 2025年1月11日 9時10分

――著書を拝見すると、ジミー・ペイジさんが愛用していたトランスパフォーマンス社のオートチューニングシステムを搭載したレス・ポール・クラシックというギターの日本の販売権を得たのはジミーさんの功績だったとありました。確かにお金のためという側面はあったと思いますが、実際の仕事に対しても、片手間の仕事はしてこなかったとも聞いています。

やはり経済的に自分の生活をキープできなければ、バンドも健全にできないというのが僕の信条でしたから。

それと楽器の業界ということで、レッド・ツェッペリンを演奏するために必要な機材を探しやすかったということもあります。出張に行った取引先の楽器店で探していた楽器を見つけて買ってきたこともありましたし(笑)。本当に皆さんにお世話になりましたし、前の会社の社長の理解と応援がなければ、今の僕はないと言ってもいいと思います。

――ジミーさんがアメリカのトリビュートバンド、レッド・ツェッパゲインに誘われ、渡米したのは50歳のときでした。脱サラしてアメリカに行く、という決断はすんなりといったのでしょうか?

僕はそういうところが不甲斐なくて。なかなか外に出られないんです。そもそも英語もできないですし。食事はどうする?住むところはどうする? といったいろいろな心配事もあるわけです。日本でもまだ十分に活動できていないのにアメリカでできるのか、ということもありました。

でも妻から、そんなチャンスがあるミュージシャンがどれだけいるのか。向こうで活動したいと思っても、ビザを取るのがどれだけ大変か。ビザを申請して演奏するステージまで用意されているというのに、チャレンジしないでどうするの?と言われました。

――そうして背中を押してもらったわけですね。

僕は楽器の輸入代理店にいたんですけど、音楽業界のみならず仕事のやり方がデジタル化していく中で、従来の楽器営業の形態から変わっていったということもあります。

それまではいろんな店舗に直接行って、製品の音を聞いてもらい、その音を理解してもらう。それが大切だと思っていたんですが、それが少しずつ変わってきていたんです。

経費を使って地方に行って楽器を紹介する、というその情熱がだんだん伝わらなくなるようになっていた。自分の居場所を見失いつつあったということもあります。

国内でのバンド活動に対しての閉塞感もどこかにありました。やはりどうしても自分がやっていることが趣味でやっているコピーバンドのように扱われてしまうんですね。はじめてお会いする方にも、「バンドをやっているんですか! いいですね。僕も学生時代にツェッペリンを弾いてましたよ」なんて言われることもあって。

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