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公務員を辞めて「ドラマの料理」を作る彼女の人生 「ゴールデンカムイ」や「ふてほど」など多数担当

東洋経済オンライン / 2025年1月14日 8時0分

「クレームを自分宛に届いたものとして捉えていたのですが、すべてを受けとめると潰れるんだなと思いました。クレームを受けているのは自分ではなく役所だと気持ちを切り替えました。ただ、『この仕事って私じゃなくても成り立つんだ……』とやりきれなさを感じるようになってしまって。いち社会人として認められる仕事がしたい。30歳までには別の道に進もうと考えました」

しかし、安定した公務員を辞める踏ん切りはつけられない。休日に図書館で料理本を読みながらストレスを解消し、約3年の間仕事を続けた。

大きな転機が訪れたのは29歳の時だった。

「職場の年上の後輩が突然亡くなりました。その子はストレスも抱えていて、『好きなことをやりたい』とずっと言っていたんですよね。人間は好きなことをやらないといけないのだと思いました」

はらさんは食の道へ進むために、フードコーディネーターを養成する料理学校への入学を決意した。数校のパンフレットを取り寄せて説明会を回り、その中でも魅力を感じたのが、日本最古の料理学校という赤堀料理学園だった。

「赤堀料理学園が1番厳しそうな学校だったんです。説明会で赤堀博美先生が『うちの学校ではフード業界で生きていける人たちを厳しく育てます』とおっしゃっていたんです。地に足がついていて、いいなと感じました」

土曜日の休暇を利用して料理学校へ半年通い、無事に卒業。両親に内緒で役場の人事課に退職届を提出し、新しい道へと進んだ。

この時期に最初の結婚を果たし、東京へ引っ越しも行い、赤堀料理学園の校長を務める赤堀博美さんのアシスタントとして働き始める。収入は公務員時代の約3分の1へと減少。それでもフードコーディネーターになるための1歩目を踏み出すのに躊躇はなかった。

多忙だったアシスタント時代

アシスタントの仕事は多忙を極めた。学校に通っていたときにアシスタントは3人いたが、働き始めるとその人たちは独立しており、専属のアシスタントが自分一人になっていた。ドラマの撮影から授業の準備まで、アシスタントの仕事をはらさん1人で担う日々が始まった。

「先生はドラマや映画でも活躍されていますが、学校の経営者でもあります。学校には2つのスタジオがあって、そこでも撮影がガシガシ入ります。全ての買い出しと仕込み、撮影の段取りをしていました」

家に戻るのは週に1〜2回のみ。「先生に認められるまで辞めない」と決めていたため、激務をこなし続ける。しかし、3年が経った頃にその生活は終わりを告げる。

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