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海運のキーワード「内航船」とは一体なにか? 歴史ある「山形県酒田港」に見る地方港の復権

東洋経済オンライン / 2025年2月7日 17時0分

話を酒田に戻すと、酒田港は山形県内では最大規模の港である。港としての沿革は後述するが、内航船については地理的な課題を抱えてきた。

「何かをやれば、何かが変わる時期」

山形県の主要産業は、県庁所在地である内陸部の山形市を中心として、村山地域に多い。そこから京浜地域までの距離は、400km超。高速道路で5時間ほど の立地のため、物流が酒田港にあまり向かないのだ。

だからこそ、物流の2024年問題は、酒田港にとって「またとないチャンス」だと言える。

本間所長は、内航船による海上輸送について「何かをやれば、何かが変わる時期。今ある航路を続けて(維持)することが大事」だと、今はまさにモーダルシフトに向けた転換期にあるとの認識を示した。

将来的には、北海道を含めて日本海側でさまざまな内航船ルートができることで、さらにモーダルシフトが進むと予想しており、「まず、一歩目」だと現状を俯瞰する。

ここで「物流の港町・酒田」の歴史を振り返ってみたい。これまでに大きく4つの時代がある。

「古代~江戸末期」「明治~昭和初期」「戦後~昭和末期」、そして「平成以降」だ。順に見ていくと、船舶輸送の始まりは、最上川による舟運(しゅううん)にある。

江戸時代の中ごろからは、北陸地方より北側の日本海側と大阪との間を結ぶ「西廻り航路」が開拓され、そこで運航する帆船の「北前船」が酒田に繁栄をもたらす。

酒田は米、青苧(あおそ)、紅花、うるし、大豆、小豆などの積み出し港だった。また、酒田への帰り荷として、播磨の塩、大阪・堺・伊勢の木綿類、美濃の茶、松前の海鮮物、下北の材木、京都の雛人形などさまざまな物資が効率よく運ばれ、そうした事業を運営する問屋が酒田でも増えた。

明治維新をきっかけにモーダルシフトが起こる

当時、「本間様(ほんまさま)には及びもないが、せめてなりたや殿様に」という、北前船交易で財を成した豪商の本間家に対する表現は、今でも酒田市民の間で広く知られている。

時代が明治に入ると、内燃機関の導入により、帆船から汽船と船が大型化した。だが、酒田港はその対応に大きく遅れた。最上川から流れ込む土砂により、酒田港の水深が浅く、汽船の受け入れに不利だったからだ。

さらに、鉄道整備が進み、物流が海上輸送から鉄道輸送へ変化し酒田が衰退 。太平洋側の産業振興も進み、内航船の航路も太平洋側が主流になっていく。

つまり、明治維新をきっかけに、ひとつのモーダルシフトが起こったと言える。そうした中、当時の内務省の技術者が、酒田港の起死回生を狙う妙策を講じた。それが、「河海分離計画」だ。

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