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旧日本海軍“最後の大仕事”=人類史上稀な民族大移動だった「復員事業」 かき集めた日本の艦艇227隻の“使い分け”とは

乗りものニュース / 2024年5月11日 18時12分

1946年1月、5000人の復員兵を乗せてラバウルで給油中の「葛城」(画像:オーストラリア戦争記念館)。

太平洋戦争の終結後、遠く太平洋島嶼部、中国大陸などに取り残された日本軍将兵の復員と民間人の帰国事業が始まりました。その対象者の数はおよそ660万人。史上稀に見る民族大移動のために、戦争で疲弊していた日本はともかく使えそうな船を集めます。

最優先だった復員輸送 船が全然ない!

 1945(昭和20)年8月の終戦後、日本政府が最優先で取り組まなければならなかったのは軍隊の武装解除と復員でした。これは、日本の無条件降伏に際して戦勝国が発したポツダム宣言にあった「日本の武装解除」と「兵員を家庭に帰す」という条文によって日本に課にされたものでした。

 このうちの後者、つまり太平洋の広範囲にわたる島嶼部とアジア大陸の各地に取り残されたおよそ660万人もの軍人と軍属、民間人を日本に帰還させるというのは、並大抵のことではない、人類史上稀に見るほどの大事業でした。本稿では、この大規模な「民族大移動」ともいえる復員事業について、その実態をひもといてみます。

 まず、戦争によって国外に散らばった邦人を速やかに帰国させるため、日本は自前で船を用意しなければなりませんでした。ところが、戦争で軍艦や徴用された商船は大半が沈没し、生き残ったわずかな艦艇も空襲で損傷していたのです。

 できるだけ多くの帰国者を乗せられる大型艦が必要でしたが、唯一生き残った戦艦「長門」はすでに米軍に接収されていました。空母は航空機の格納庫に大勢を収容できますが、戦争後期に建造が進んでいた雲龍型の多くが未完成か空襲で損傷していました。改造空母の「隼鷹」は1944(昭和19)年12月にフィリピンから兵員輸送中に米潜水艦の魚雷が命中し、なんとか佐世保までたどり着くも、損傷した機関部を修理する余裕がないまま放置されていました。

 結局、使用可能な空母は日本海軍最初の空母だった「鳳翔」と、雲龍型の「葛城」の2隻だけです。「葛城」は空襲で飛行甲板が大破していましたが、航行に支障はなく修理が可能でした。

 他に、5000t以上の船では巡洋艦の「八雲」「鹿島」「北上」「酒匂」、潜水母艦「長鯨」と徴用船の「氷川丸」「高砂丸」があり、10隻以上残っていた松型を含む駆逐艦、海防艦、輸送艦などを含めた227隻が復員輸送船に投入されることとなりました。

 これらの船は損傷個所を修理し、武装解除と人員の収容スペースを確保するため備砲を撤去し、空母は格納庫に畳が敷かれ、識別のため舷側に国籍マーク(日の丸)とローマ字の艦名が描かれました。

復員輸送船の使い分け

 優先されたのは日本から遠い太平洋の島々からの復員です。島嶼部の守備隊では、日本からの補給が途絶えて餓死者が続出していました。

 輸送には大型艦があてられ、1945(昭和20)年9月1日に第一陣の「高砂丸」が東京港を出航し、ニューギニアの北方にあるカロリン諸島のメレヨン島にいた守備隊を収容しました。さらに空母や「氷川丸」他の大型船がマーシャル諸島、ラバウルやソロモン諸島、ニューギニアの復員を行い、一番大型の「葛城」(排水量1万7150t)は一度に5000人を輸送しています。

 一方、東南アジアや中国大陸、朝鮮半島などの復員と民間人の引き揚げは、巡洋艦と駆逐艦などの小型艦が行いました。復員輸送船で最も古かった「八雲」は、日露戦争前にドイツから購入した装甲巡洋艦でした。竣工から45年を経た老朽艦で、遠距離の航海には適さないとして中国大陸と台湾からの復員輸送にあてられています。

 数々の激戦を生き残った幸運艦として有名な駆逐艦「雪風」は、往路の際に外地で裁判が行われるBC級戦犯の輸送も行っています。

 このように、使える船はすべて投入する態勢を取ったものの、日本の艦艇だけでは足りず、日本政府はGHQに米軍艦艇の貸し出しを要請します。GHQは12月には物資や兵員輸送用のリバティ船や戦車揚陸艦LSTといった約200隻の艦艇を提供しました。

 同時に戦後処理を行っていた陸軍省と海軍省は、それぞれ第一・第二復員省となり、復員事業が本格化します。

わずか5年で625万人が帰国

 軍隊の復員と民間邦人の引き揚げは1946(昭和21)年春から夏にかけてピークを迎えます。その一方で、役割を終えた復員輸送船は順次、解体されていきました。その中にはビキニ環礁の原爆実験で標的艦となった軽巡洋艦「酒匂」や、「雪風」のように戦時賠償艦として台湾に引き渡された艦艇もありました。

 こうして1950(昭和25)年9月までに約625万人の日本人が帰国を果たしました。ただし、シベリア抑留者の帰国は1956(昭和31)年まで、引き揚げ者の輸送は1970年代まで続きます。

 日本にとっての「戦争の後始末」である復員と引き揚げは、戦域が広大だったために、同じ敗戦国だったドイツとは比べものにならないほど大規模になりました。これほど大量の自国民が短期間に帰国した例は、現在に至るまで他にありません。またこれは、日本海軍艦艇が最後に行った大仕事ともなり、それとともに旧日本軍はその歴史の幕を閉じたのでした。

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