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<Wコラム>康熙奉(カン・ヒボン)の「日韓が忘れてはいけない人」~加藤清正(前編)

Wow!Korea / 2016年8月10日 20時29分

熊本市にある本妙寺(写真提供:ロコレ)

熊本に出掛けてみると、地元では今でも英傑として加藤清正が讃えられていることがよくわかる。タクシーの運転手さんも「熊本の歴史に残る人物といえば、まずは加藤清正公です」と大きな声で言っていた。ただし、江戸時代に熊本を治めたのは細川家であり、その末裔からは総理大臣まで出ている。それでも、地元での名声は加藤清正が断然、という雰囲気だ。

■加藤清正の廟所

豊臣秀吉の子飼いの武将であった清正が肥後(現在の熊本県)に入ったのは1588年だった。朝鮮出兵を考えていた秀吉が、その布石としてまず清正を九州に配したと言われている。実際、清正は1592年から始まった文禄・慶長の役では、豊臣軍の先兵の役割を果たした。

その清正が熊本城で病死したのは1611年。享年50歳だった。遺言によって、彼が深く帰依していた日真上人の草庵の近くに葬られた。それにともなって、もともと清正が建立した本妙寺(ほんみょうじ)も、彼の廟所に移された。

今、JR熊本駅からタクシーに10分ほど乗ると、中尾山にある本妙寺に行くことができる。この寺は清正の菩提寺としても著名であり、石段をかなり上り詰めると清正の墓となっている淨池廟にたどりつく。

この淨池廟は、りっぱな造りの神殿のようだが、中に清正の木像を安置してあり、その下に彼が葬られている。つまり、淨池廟全体が清正の墓になっているのだ。

ただ、外からは建物の一部を眺めることしかできないので、清正の墓と言われても実感がわかない。むしろ、中尾山の8合目あたりにある清正の銅像を見たほうが、よほど彼のイメージを膨らませることができる。

■13歳の利発な少年

清正の銅像は、見上げるほどに高い台座の上に立っている。銅像も大きさが約8メートルもあるので、ずっと見上げていると首が痛くなる。

そんな私(康熙奉〔カン・ヒボン〕)たちをはるかに見下ろすような形で、銅像の姿をした清正は槍を持って熊本城のほうをにらんでいる。

私は首の痛さに耐えながら、しばし清正の銅像を見続けていた。彼によって運命を大きく変えさせられた朝鮮半島出身の少年のことを思いながら……。

豊臣軍が朝鮮半島に攻め入ったのは1592年だった。

以後、秀吉の死によって豊臣の軍勢が引き揚げるまでの6年間、朝鮮半島は凄惨な戦場となった。その中で、朝鮮半島の数多くの人たちが豊臣軍の武将たちによって日本に連れ去られた。専門的な技術や学識を持っているという理由で、陶工、儒者、僧侶たちも捕虜となったが、その中には聡明な少年たちも含まれていた。

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