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<Wコラム>康熙奉(カン・ヒボン)の「簡潔に読む! 韓国の歴史」~百済の歴史(後編)

Wow!Korea / 2016年9月2日 22時35分

3世紀の中頃には中央集権的な国家の基盤をしっかり整備し、4世紀後半には朝鮮半島の南岸にまで領土を広げることに成功した。こうして百済は、高句麗、新羅と覇を競う三国時代の一角を担うようになった。(写真提供:

3世紀の中頃には中央集権的な国家の基盤をしっかり整備し、4世紀後半には朝鮮半島の南岸にまで領土を広げることに成功した。こうして百済は、高句麗、新羅と覇を競う三国時代の一角を担うようになった。

■豪華絢爛たる王朝文化

当時の百済にとって悩みの種は、南下を狙う高句麗の存在だった。両国は漢江の流域で激しい戦闘を続け、お互いの王までも戦死するという悲劇を繰り返していた。

そうした戦いの様子はペ・ヨンジュン主演の『太王四神記』でもひんぱんに描かれていた。

漢江流域に都があると戦乱に巻き込まれるのは明白であり、百済としても、より安全な土地に遷都する必要性を痛切に考えるようになった。

そこで、百済は475年、都を熊津(ウンジン/現在の公州〔コンジュ〕)に移した。

501年には第25代目の武寧王(ムニョンワン)が即位し、その治世は523年まで続いた。

この頃が百済の黄金期で、当時は中国大陸の影響を強く受け、豪華絢爛たる文物に彩られた王朝文化を花開かせた。

■『薯童謠(ソドンヨ)』の主人公

百済は、日本との交流も活発に行なっており、第26代目の聖王(ソンワン/日本では聖明王と呼ばれている)は、538年に日本の朝廷に仏像や仏教経典を贈っている(それは552年だったという説もある)。これが日本に仏教が伝わった始まりとされている。

また、聖王は538年に都を現在の扶余(プヨ)に移すという大事業を行なっている。ただし、554年に新羅との戦いの中で非業の死をとげてしまった。

百済では、戦死した王が何人もいるのだが、それだけ陣頭指揮をする王が多かったのである。

600年には第30代目の武王(ムワン)が即位した。この王は時代劇の『薯童謠(ソドンヨ)』の主人公になっており、今の韓国で特に有名な百済王である。

歴史書の『三国遺事』には、新羅の善徳(ソンドク)女王の妹である善花(ソンファ)と武王が結婚したというロマンスが書かれている。

実際、その話をベースにして『薯童謠』は企画されたのである。

ドラマのタイトルになっている「薯童謠」とは童謡のことだが、武王は歌が大好きだったようで、ひんぱんに宴会を開いては、自ら鼓を打ち、琴を弾き、上機嫌で歌ったという。また、実際の武王が偉大な王であったことは間違いなく、『三国史記』にも武王は「風貌や行動が立派で、豪傑でもあった」と最大級に称賛されている。

こうした武王の威光があるうちは黄金時代が続いたが、盛者必衰は世の常である。

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