野心のためには平気で事実を曲げる…天下人の豊臣秀吉に対し、徳川家康が堂々と主張したウソの中身
プレジデントオンライン / 2023年2月15日 9時15分
※本稿は、堀口茉純『江戸はスゴイ 世界が驚く!最先端都市の歴史・文化・風俗』(PHP文庫)の一部を再編集したものです。
■もともとは小豪族の長男で、幼名は竹千代
徳川家康は、いったいどの時点から将来自分が幕府を開くことを意識したのだろうか。私はかなり早い段階で高い志を立てていたのではないかと考えている。その根拠となるのは改名と改姓だ。
家康は西三河(愛知県中部)の小豪族で岡崎城主の松平広忠の長男として生まれた。幼名は竹千代。
松平家の領国は東に今川家、西に織田家という有力な戦国大名に囲まれており、いつどちらに侵略、もしくは吸収されてもおかしくない危機にさらされていた。
このため竹千代は6歳から織田家の人質となり、8歳の時に父・広忠が家臣に暗殺された後は今川家の人質となった。そして14歳の時に今川家で元服し、当主の今川義元の元の字を与えられて、松平元信と名乗るようになる。
■祖父は味方に殺されて死んだ非業の英雄
ちなみに、人質というと、「虐げられていた」というイメージを覚えるかもしれないがこの場合はそうではない。今川義元は家康に一流の教育を施し、自身の姪と結婚させて今川一門に準ずる扱いをした。松平家の後継者である家康を取り込むことで西三河の領地を円満吸収しようという下心があったと思われる。
ただ、このころに家康は松平元信から松平元康に改名している。元康の康は祖父の松平清康の康。清康は三河(愛知県東半部)統一まであと一歩のところで味方に殺されて死んだ非業の英雄だ。
私にはこの改名は「このまま今川家に吸収されて終わるつもりはない。いつか自分が祖父の悲願の三河統一を果たす」という決意の表れのようにみえるが、考えすぎだろうか。
永禄3年(1560)、19歳の時に桶狭間の戦いで庇護者であった今川義元が織田信長に討たれると、家康は岡崎城に帰り、地元の三河平定に着手。織田信長と同盟を結び、今川家からの独立を果たした。この時点で今川義元の元の字を捨てて名乗り始めたのが、松平家康という名である。
■血筋を偽って徳川と名乗る
家康の家という字はどこからきているのかというと、源義家の家。八幡太郎義家の愛称で知られる源義家は平安時代後期、奥州での合戦などで大活躍をした源氏の棟梁(とうりょう)で、源頼朝や足利尊氏の先祖にあたるスーパーヒーロー的存在の武将だ。
そして家康は永禄9年(1566)、25歳の時に念願の三河統一を果たすと「実は松平家は八幡太郎義家の流れをくむ清和源氏の名門・新田家の末流で、下野国新田荘世良田得川(徳河とも)郷に地盤を持った得川義季の子孫なのです!」ということで、家名を松平から徳川に改め、徳川家康と名乗るようになった。
お察しの通り、この徳川への改名時のストーリーは捏造(ねつぞう)である。
家康の8代前の松平氏の始祖・親氏は、乞食僧だったという説もあるほどの素性の知れない人物で、諸国を放浪した末に三河国松平郷に流れ着き、有力者の婿養子となって松平親氏を名乗った。
■ネームバリューが必要だった
松平家が源氏とつながるというのは家康の祖父の清康のころから喧伝されるようになったのだが、確かな系図上では始祖・親氏より前にはさかのぼることはできず、実際に源義家に連なる血統であるという証拠はどこにもない。
家康は三河国の支配権を確立するために天皇から従五位下三河守叙任の勅許を得る必要があり、公家たちを巻き込んでそれらしい由緒をかき集め、自身が尊い血統につながるとする系図を捏造したのだ。
なお、こういった系図の捏造は、当時としては特段珍しいことではない。戦国乱世では下剋上による支配権の簒奪(さんだつ)が日常茶飯事であり、権威の箔(はく)付けのために系図や官位官職等の売買が普通に行われていた。家康はこれ以降も随時系図の補完を進めている。
しかし、徳川家康という名はなんとも野心的である。
もちろんこの改名が表向きは三河支配の正当性確立のためのものだったことは先に述べた通りだ。三河と領地を接する今川家は足利家の支流という名門であるから、それに対抗しうるネームバリューが必要という側面もあっただろう。
■家康が志を立てた時
しかし、意味合いとすれば自身がスーパーヒーロー・八幡太郎義家の末裔(まつえい)であり、源頼朝、足利尊氏という幕府創業のビッグネームにつながることを暗に主張するものなのだ。三河一国の統治で満足するような人物の名前とはとても思えない。
「次に幕府が開かれるとしたら、その頂点に自分が立つ」と、家康がひそかに志を立てたのはこの時だったのかもしれないと私は妄想している。
徳川家康とは、そういう妄想を掻き立てるようなスケール感をもった名前なのだ。
実際に家康は、その後、今川義元の旧領の遠江国(静岡県西部)・駿河国(静岡県中部)へと破竹の勢いで勢力を伸ばし、「海道一の弓取り」と賞されるほどの力をつけていった。
■なぜ秀吉の家臣になることを承諾したのか
天正10年(1582)に本能寺の変で同盟相手の織田信長が討たれると、甲斐(山梨県)・信濃(長野県)も平定してさらに領土を拡大。
天正12年(1584)には、織田信長の後継者として全国統一に向けて動き出した羽柴秀吉と、小牧・長久手の戦いで激突した。
戦いは膠着(こうちゃく)し、家康は兵を引きはしたが完全に敗北したわけではなかった。秀吉は、家康との不和が長引けば全国統一にも差しさわりが出るため、自身の妹を家康の継室に、母を人質に差し出すなどして懐柔工作を進めた。家康はそれだけ大きな存在になっていたのだ。
そして2年後についに秀吉に臣従することを承諾。これをもって家康は羽柴秀吉の家臣になったわけであるが、家康はそのポジションを良しとしたのだろうか。
■朝廷から認められたのは藤原だった
この問題を考えるうえで注目したいのが氏(うじ)の改姓である。当時の日本社会では、主に所領に由来する家名(名字のこと。松平、徳川など)のほかに、同一の先祖から発生していることを示す氏が意識された。源、平、藤原、橘などがこれにあたる。
家康は、実は、永禄9年(1566)、従五位下三河守叙任勅許の際に朝廷から認定された氏は藤原であった。系図を作成する際に参考にした記録が「徳川は本来は源氏なのであるが、その筋が分かれて藤原氏になった」というものだったからである。
なぜそんなややこしいことになったのか事情ははっきりしないが、この問題を調整したのが藤原氏の氏の長者である公家の近衛前久であることが関係しているのではないかと考えられている。
ただ、家康は永禄9年以前は、発給する文書に源氏と署名していたのだ。このことから家康自身はルーツが源氏であることに強いこだわりを持っており、本音としては源氏を称したかったのであろうことがうかがえる。
■家康ただ一人が源氏を名乗った
そして家康は、ある時期を境に、また源氏を称するようになる。それは天正16年(1588)、47歳のときのこと。この年の正月、室町幕府15代将軍だった足利義昭が朝廷に征夷大将軍職を返上して出家、室町幕府が滅亡した。
同年4月。羽柴秀吉は新たな邸宅である聚楽第に後陽成天皇を招き、天皇の前で諸大名に自身への恭順の宣誓と署名を求めた。
この時の記録『聚楽第行幸記』を見ると、大名のほとんどが豊臣氏を冠した署名をしている。豊臣は秀吉が天皇の許可を得て新たに創始した氏で、家臣の大名たちに授与した。なので、たとえば秀吉の親友ともいえる間柄で、豊臣政権を支えた重鎮の前田利家も豊臣利家と署名している。
しかしこの時、ただ一人、源氏として署名したのが家康だった。室町幕府が滅亡し、足利将軍が消滅した年に、家康が再び自身のルーツが源氏であることを主張するようになったというのは大変興味深い。
■次の将軍になるという野望
鎌倉幕府を開いたのは源氏の源頼朝。室町幕府を開いたのはやはり源氏の足利尊氏。あくまで結果論ではあるが、これまで幕府を開いたのは源氏をルーツに持つ征夷大将軍だ。
特に家康は鎌倉幕府編纂の歴史書である『吾妻鏡』を愛読するなど源頼朝に傾倒し、それはもうバチバチに影響を受けていた。
家康はこの時点で「次に幕府が開かれるとしたら、その頂点に自分が立つ」ことを、ある程度実現の可能性がある未来として意識したのではないか。
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作家・歴史ユーチューバー
東京都足立区生まれ。タレント、作家、歴史ユーチューバー。明治大学文学部を卒業。卒業後は女優として舞台やテレビドラマに多数出演。2008年に江戸文化歴史検定一級を最年少で取得し、執筆、イベント、講演活動にも精力的に取り組む。著書に『TOKUGAWA15』(草思社)、『UKIYOE17』(中経出版)、『EDO-100』(小学館)、『新選組グラフィティ1834-1868』(実業之日本社)がある。
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(作家・歴史ユーチューバー 堀口 茉純)
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