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「独眼竜」のイメージから程遠い…朝起きたら虎の毛皮の上でタバコを一服から始まる伊達政宗の意外すぎる日常

プレジデントオンライン / 2024年5月5日 8時15分

仙台城の伊達政宗像、2019年(※写真はイメージです) - 写真=iStock.com/junce

大河ドラマの名作『独眼竜政宗』がBS放送で再放送され、再び注目を集めている東北の覇者、伊達政宗。作家の濱田浩一郎さんは「政宗は豊臣秀吉に屈した後、徳川家に仕え、江戸幕府の大名として悠々自適の毎日を送っていた。政宗の従兄弟が政宗の日課を詳しく書き遺している」という――。

■「大名の一日」をルーティーン動画のように見てみよう 

近年、YouTubeでルーティーン動画が流行っている。YouTuberの日々の日常を撮影し、動画としてアップしたものである。「○○をやってみた」のような企画系動画でもなく、旅行などの非日常の体験を動画にしたものでもない。ひたすら、その人の日常生活を撮影した動画が人気を集めているのだ。

人気YouTuberのモーニングルーティーンやナイトルーティーンは、何百万回も再生されるほどである。芸能人をはじめとする人気YouTuberの普段の生活を垣間見たいという欲求や、そこから何か学べるものや共感できるものを見つけたいという好奇心が、ルーティーン動画が人気の理由であろう。

では、「今生きている人ではなく、既に亡くなった人、しかも絶大な人気を誇る歴史上の人物で、ルーティーンを再現できないだろうか」と考えてみた結果、ある戦国大名の日常を再現できることに思い至った。それは、戦国武将の人気ランキングで、上位3名に選ばれることが多い、伊達政宗(1567〜1636年)である。

■子どもの頃に病で失明し「独眼竜」と呼ばれた若き名将

幼少期に右目を失明し独眼竜と呼ばれたことで有名だ(幼少期に失明していなかったとの説もある)。一時は、現在の福島県、宮城県にわたる大領土を支配した東北の覇者である。豊臣秀吉や徳川家康に仕え、慶長遣欧使節(1613年)をローマに派遣。国際的視野も持っていた。

関ヶ原の戦(1600年)では徳川家康を助けて会津の上杉景勝と戦った。その軍功で刈田郡を与えられ、仙台藩62万石の礎を築き上げたことでも著名である。

寛永13年(1636)、江戸桜田邸で死去、70歳であった。

政宗はあの徳川家康にも警戒されていた。家康は元和2年(1616)1月、死の床につくが、その際に駆け巡ったのが「政宗謀反」の噂であった。これは、政宗の婿で、家康の六男・松平忠輝の讒言(ざんげん)(政宗は豊臣方に通じていた)によるものとされるが、諸大名の間にも緊張が走った。細川忠興(細川ガラシャの夫)などは、豊前小倉城にある子・忠利に対し「大略、必ず政宗出られるべしと存じ候」(大方、必ず政宗は挙兵するであろう)として、内々に戦の用意をするよう命じているのである。

家康も政宗の動向を疑い、政宗を駿府城に招く。両雄の会見により、事の発端が忠輝の讒言によることが分かり、家康は政宗への疑いを解く。しかし、政宗は、もし徳川方の軍勢が大挙して自らを攻めるならば、江戸に乗り寄せて、雌雄を決せんとの心掛けだったともいう(小倉博編『伊達政宗言行録』宝文堂出版、1987年)。

■徳川家康に警戒されたが、二代将軍・秀忠に尽くす立場に

末期の家康は、二代将軍・徳川秀忠のことを頼むと政宗に依頼したようである。後に秀忠も病床にて、我が子・家光を守り立てるよう政宗に依頼している。またその際、秀忠は「家康公の末期の言葉を違えず、今日に至るまで、その志を見せてくれたので、三代将軍へ代を譲ることができた」と政宗に感謝しているのである。

若かりし頃の政宗は天下取りに燃えていたとも言われる(平川新「政宗謀反の噂と徳川家康」(『東北文化研究室紀要』52、2011年)。しかし、その野望は、豊臣秀吉や徳川家康の天下制覇により、挫(くじ)けていかざるを得なかった。無謀な反抗は、御家の破滅を招くだけである。そこで、政宗は将軍に信頼されつつ、大名としての安定した立場を選択した。現代風に言えば、全国に支社がある大企業の仙台支店長の座に甘んじたということだろうか。晩年の政宗は仙台城や江戸藩邸で悠々自適の日々を送ることになる。

そのようなことを念頭において、政宗のルーティーン(日課、決まった手順)をご覧頂きたい。政宗のルーティーンが記されているのが、政宗の従兄弟・伊達成実(1568〜1646年)が記した『政宗記』という書物である。そのなかに「政宗一代之行儀」との項目があり、政宗の日課が書かれているのだ。

■江戸幕府の重鎮となってからの伊達政宗の日課とは

ちなみに、政宗の遺骨は丹念に調査され、身長は159.4cmだったと言われている。手足の骨は太く、筋肉もあり頑強な肉体を有していたようだ。

まず、政宗が朝起きて一番にやったことは何か。現代人ならば、布団からはい出て顔を洗ったり、歯を磨いたりといったことかもしれないが、政宗は違った。寝床において、髪を自ら束ねたのだ。その後、トイレに行き、またもとの寝床に帰ってくる。

そして、煙草(たばこ)を所望するのである。煙草を差し出す者は決まっていたようだ。警護役の小姓がその役目を承っていた。現代人ならば、ライターで煙草に火をつけて一服といった感じだが、政宗の場合は、寝床の上に虎皮を敷かせて、必要な道具を置かせ、ろうそくの火で煙草を吸ったのである。

ちょっとした儀式のようでもあり、まさに、朝から「伊達者(だてもの)」(ぜいたくで、風流を好む人)ということもできるだろう。3服あるいは5服吸ったという。その間、政宗は何を考えていたのだろうか。何も考えずリラックスしていたか。それとも、政治向きのことでも考えていたのか、想像が膨らむ。

「伊達政宗消息」(京都国立博物館蔵)
「伊達政宗消息」(京都国立博物館蔵)伊達政宗が徳川家の宿老土井利勝に宛てた消息。家康から休暇をもらい、ゆっくりと鷹狩を楽しんだことを報ずる。(出典=国立博物館所蔵品統合検索システム)

■朝起きると、虎の皮の上でタバコを吸ってから……

煙草を吸い終わると、政宗は「閑所(かんじょ)」という小部屋に行く。そこには棚の上に硯(すずり)・料紙・簡板(かんいた)・香炉、刀掛が置かれていた。そこで何をしたかは『政宗記』に書かれていないが、場合によっては何か書き物をしたのかもしれない。香を焚いてリラックスした時を過ごしたとも考えられる。閑所で過ごした後は、お風呂に入るのだが、その前に、朝食の献立表を見て、食べたくないものがあれば指示を出して修正させている。

そしていよいよ「行水(ぎょうずい)」(桶やたらい等にお湯や水をそそぎ、それを浴びて体を洗う)である。まず、腰の大小刀を刀掛けに置く。そして、広蓋の上には行水の後に着る小袖や帯、印籠、巾着、鼻紙をそろえさせた。行水の仕方や、浴衣で濡れた身体を小姓に拭わせる方法も決まっていた。朝晩二度の行水、旅行中であろうと、嵐や寒い冬であろうと、その手順は決まっていたようだ。

ここまでが「寝食、休憩の場所」である「奥」での日課である。行水が終わると、政宗は「表」(公務の場所)に出て行く。表の寝間に入り、それまで着ていた小袖を着替える。そして、居間に行き、髪を結ってもらう。髪を止める緒が緩んだら、何度もやり直させたという。髪のセットが終わると、表座敷に出て行き、「相伴衆(しょうばんしゅう)」と呼ばれる側近達を呼ぶ。小姓に呼びにいかせるのだ。側近たちと朝食をとるのである。側近たちに膳が行き渡ったことを見ると、政宗は膝を直し、箸を取り、お椀に手をかける。それと同時に側近も箸(はし)をとるのであった。食後にお酒を飲む時は、政宗はうがいをしてから、飲んだという。

土佐光貞作「伊達政宗」肖像画
土佐光貞作「伊達政宗」肖像画。東福寺・霊源院所蔵(画像=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

■体を洗うと髪をセットし朝食、家臣と続けてのトイレタイム

しかし、食事中に、親類の者が一人でもいれば、うがいはしなかったと言われる。政宗なりのエチケット・礼儀があったのだろう。政宗は大酒飲みではなく、酒はほとんど飲まなかったようだ。食事中は、家臣たちが政宗を楽しませるため、芸を披露したという。今風に言うと、宴会の一発芸のようなものか。それが済むと、頃合いを見計らって、政宗がお湯を所望する。茶菓子の用意をさせている間に、政宗はトイレに立つ。すると、家臣たちも次々にトイレに向かう。トイレタイムが終わると、茶を点(た)て、薄茶や菓子を飲食する。茶の時間が終わると側近は席を立ち、朝食は終了となる。

その後は、役人たちが入れ替わり立ち替わりやって来て、政治向きの話をする。政務の時間である。午後2時頃までが政務の時間であった。その間に、昼食の記述はないので、政宗は昼ご飯は食べなかったようだ。政務が終わると、夕食の献立を見て、食べたくないものを修正させた。これは朝食前と同じである。政宗公は、好き嫌いが激しかったのであろうか。

■暴れん坊大名らしからぬ優雅な一日のルーティーン

「表」から「奥」へ入り、夕食を食べる。その後、閑所に行き、夜の行水(入浴)タイム。夜は、本を読んだり、和歌を詠んだり、リラックスした時を過ごすこともあったようである。これが、伊達政宗の日々ルーティーンである。大名には、一日の予定が大体決められており、それに従い行動しなければならなかった。窮屈な生活かもしれないが、それも「ノブレス・オブリージュ」(貴族や上流階級に生まれたものは、社会に対して果たすべき責任が重くなるという格言)だと思えば致し方ないだろう。

「独眼竜政宗」と言うと、猛々しい暴れん坊大名のイメージがあるかもしれないが、それとはだいぶ異なる政宗の日常生活であった。

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濱田 浩一郎(はまだ・こういちろう)
作家
1983年生まれ、兵庫県相生市出身。歴史学者、作家、評論家。姫路日ノ本短期大学・姫路獨協大学講師を経て、現在は大阪観光大学観光学研究所客員研究員。著書に『播磨赤松一族』(新人物往来社)、『超口語訳 方丈記』(彩図社文庫)、『日本人はこうして戦争をしてきた』(青林堂)、『昔とはここまで違う!歴史教科書の新常識』(彩図社)など。近著は『北条義時 鎌倉幕府を乗っ取った武将の真実』(星海社新書)。

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(作家 濱田 浩一郎)

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