1. トップ
  2. 新着ニュース
  3. ライフ
  4. ライフ総合

伏見城を守る1800人全員が血を流して死んだ…「血天井」として残る鳥居元忠の壮絶すぎる最期

プレジデントオンライン / 2023年11月6日 1時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Thongchai

京都市の養源院などには、徳川家康の家臣・鳥居元忠らが絶命した際の床板を天井に張り替えた「血天井」がある。歴史評論家の香原斗志さんは「鳥居元忠が絶命した伏見城の戦いでは、城を守る1800人全員が討ち死にした。この石田三成の残虐な振る舞いが、徳川家康らを発奮させて、関ヶ原合戦の勝敗にも影響を及ぼした」という――。

■「逃げることは許されぬ。必ず守り通せ」

「万が一の折、要となるのはこの伏見。留守を任せられるのは、もっとも信用できる者。逃げることは許されぬ。必ず守り通せ」

謀反の風聞が立つ会津の上杉景勝(津田寛治)討伐に出発する主君の徳川家康(松本潤)からそう告げられ、伏見城(京都市伏見区)を託された鳥居元忠(音尾琢真)は、「上方は徳川一の忠臣、この鳥居元忠がお守りいたしまする」と答えた。NHK大河ドラマ「どうする家康」の第41回「逆襲の三成」(10月29日放送)。元忠がこのとき流した涙に、視聴者の多くは、家康に仕えて半世紀になるこの忠臣がまもなく、壮絶なドラマに襲われると察したのではないだろうか。

家康が上杉討伐のために大坂城(大阪市中央区)を発ったのは慶長5年(1600)6月16日のこと。2日後の6月18日、伏見城に立ち寄って鳥居元忠に城を託した。一次資料ではないが『名将言行禄』には、このときの2人のやりとりが記されている。家康が多くの兵を残せないことを詫びると、元忠は「会津は強敵なり、一人も多く召具せられ然るべし、伏見には某一人にて事足り候(上杉は強敵なので、1人でも多く連れて行ったほうがよく、伏見は自分一人で大丈夫だ)」と答えたという。

結論を先にいえば、1カ月半後の8月1日、鳥居元忠は命を落とした。そして彼の壮絶な死のあとは、じつは、いまも京都市内で見ることができる。元忠らの血が染みこんだ伏見城の床板が、正伝寺(北区)や養源院(東山区)など徳川ゆかりの寺の廊下に「血天井」として張られているからである。

いったいなにが起きたのか。それを理解するために、伏見城についての説明からはじめたい。

■豊臣秀吉が息を引き取った城

このところ「どうする家康」では、家康が伏見城にいることが多かった。豊臣秀吉(ムロツヨシ)が息を引き取ったのも伏見城だった。

鳥居元忠肖像
鳥居元忠肖像(写真=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

この城は家康の死後の元和9年(1623)に廃城となってしまい、その跡地も本丸などの中心部は、桃山御陵(明治天皇と昭憲皇太后の陵墓)となって宮内庁が管理しており、立ち入ることもできない。そんな事情があって、一般には印象が薄いようだ。しかし、豊臣政権の中枢は、ある時期から伏見城に置かれていた。秀吉が築いた城の例に漏れずきわめて豪奢で、かつ政治的にも重要な城だったのである。

秀吉が伏見城を築いたきっかけは、天正19年(1591)末に、関白職を甥の豊臣秀次に移譲したことだった。同時に京都における政庁にしていた聚楽第も秀次に譲ったので、自身の隠居屋敷が必要となって築いたのが伏見城のはじまりだった。文禄2年(1593)8月に嫡男の拾(のちの秀頼)が生まれてからは、秀吉はこの城を本格的な城郭として整備した。

ただし、この最初の伏見城は、鳥居元忠が守ることになるのちの伏見城とは、所在地が異なっていた。

■なぜ三成は伏見城を狙ったのか

淀川を望む指月の丘に築かれたこの伏見城は、文禄5年(1596)閏7月の大地震で天守が倒壊するなど甚大な被害を受けてしまう。このため秀吉は、1キロほど北東の高台である木幡山に、あらたに城を築きなおした。かなりの突貫工事が行われ、その年の10月には本丸が完成し、翌慶長2年(1597)の5月までには、天守や御殿も竣工(しゅんこう)している。

以来、秀吉は慶長3年(1598)8月18日に没するまで、この木幡山伏見城を拠点にして政務を行い、それを引き継ぐかたちで、秀吉の死後はいわゆる五大老、五奉行による政治の舞台となった。

次第に伏見城は家康色が強まっていく。家康は慶長4年(1599)閏3月の石田三成襲撃事件を機に、伏見城に居所を移している。同年9月に自身の暗殺計画が浮上した際、伏見城から大坂城西の丸に移ったが、その後も、伏見城は家康にとって重要な拠点であり続けた。

しかし、だからこそ三成らが挙兵すると、伏見城が真っ先に狙われることになったのである。

■関ケ原の戦いのきっかけ

家康は慶長5年(1600)7月2日にいったん江戸城(東京都千代田区)に入り、家康に従う豊臣系の武将たちも江戸に集結。その後、榊原康政率いる先発隊は13日、嫡男の秀忠は19日に江戸を発ち、遅れて21日には家康も、江戸を発って会津に向かった。

ところが、その間に上方の情勢は激変していた。石田三成は7月10日ごろ、会津に向かおうとしていた大谷吉継を、自身が引退生活を送っている佐和山(滋賀県彦根市)に呼び寄せ、挙兵計画を打ち明けて協力を取りつけた。

とはいえ、この時点では三成の行動に大坂は同調していない。7月12日には、三奉行(すでに五奉行から三成と浅野長政が抜けていた)のひとりの増田長盛は、家康側近の永井直勝に宛てて、三成と大谷吉継が不穏な行動をとっていると告げている。また、同じ日に茶々と三奉行から、三成と吉継に謀反の動きがあるので沈静化のために急ぎ戻るように、という書状が家康に出されている。

ところが、その後、三成と吉継が増田のほか長束正家、前田玄以の三奉行を説得。茶々もそれに同調し、討伐すべき相手が家康へと転換する。7月17日には、家康の非道を13カ条にわたって記した「内府ちがひの条々」が、三奉行の添え状をともなって全国の大名に送られた。三成に導かれた大坂方の勢力は、こうして家康に宣戦布告をするのである。

三成方の軍勢が、鳥居元忠が守る伏見城を取り囲みはじめたのは、「内府ちがひの条々」が出された翌日の7月18日で、この日に元忠から家康のもとに、伏見城が攻囲された旨が書かれた書状が送られている。

■1800人対4万人の結果

鳥居元忠は「どうする家康」でイッセー尾形が演じた鳥居忠吉の三男で、家康より3歳ほど年上だったとされる。幼少時から家康に仕え、忠吉の長男が戦死するなどしたために家督を継ぎ、主要な戦いにはほとんど参戦。早い時期から軍団長として家康から権限が委譲されてきた。

天正18年(1590)に家康が関東に転封になると、下総(千葉県北部と茨城県南部)の矢作(千葉県香取市周辺)に4万石をあたえられている。常陸(茨城県北東部)の佐竹氏や東北の諸大名に備えるために重要な地で、それだけ家康に買われていたといえるだろう。

そんな元忠が発した前述の書状が家康のもとに届いたのが7月24日で、翌25日、家康は諸将を集め、このまま上杉討伐に向かうか、反転して三成を討つかを質し、三成の討伐に向かうことを決める。

だが、その間も、鳥居元忠が守る伏見城は、宇喜多秀家、島津義弘、小早川秀秋らに取り囲まれ、23日には毛利輝元配下の1万が加わり、総勢4万の軍勢によって攻城された。もっとも、秀吉が権力と財力に飽かせて築いた城だから、簡単に攻め落とせるわけではなかったが、元忠率いる守備兵は1800にすぎず、城内の防衛は行き届かない。

8月1日、三成方に内応した兵士が城内に火を放つにおよんで、ついに包囲軍は城壁を乗り越えて城内に一気に攻め込んだ。その結果、最後まで戦った元忠も鈴木重朝(いわゆる雑賀孫一)の槍に突かれて討たれ、三百数十名の武士たちが城内で切腹して果てた。

■私が理解できない三成の行動

石田三成は8月5日付で、信濃(長野県)上田城(上田市)の真田昌幸と子息の信幸および信繁(いわゆる幸村)に宛てて書状を送り、そのなかに次のように書いている。

「先書ニも申候伏見之儀、内府為留主居、鳥居彦右衛門尉、松平主殿、内藤弥次右衛門父子、千八百余にてこもり候、七月廿一日より取巻、当月朔日午刻、無理ニ四方ヨリ乗込、一人も不残討果候、大将鳥井首ハ御鉄砲頭すゞき孫三郎討捕候、然而城内悉火をかけ、やきうちにいたし候(先にも書いた伏見のことは、家康が鳥井元忠らに留守居を命じ、彼らは1800余の軍勢で立てこもっていたが、7月21日に包囲を開始し、8月1日の昼ごろ、強引に四方から乗り込んで一人残らず討ち果たした。大将の元忠の首は鈴木孫一が討ち取り、その後は城内にことごとく火をかけて焼き討ちにした)」

また、8月2日付で三成を加えた四奉行および毛利輝元、宇喜多秀家の6名の連署で真田正幸に送られた書状には、ほぼ同様の内容に続き「誠以天罰与申事ニ候(誠に天罰というべきことだ)」と書かれている。

三成らは「豊臣公儀」を前面に打ち出し、こうして家康と対峙(たいじ)したわけだが、豊臣公儀を確立した秀吉が丹精込めて築き、その死に場所にもなった城を焼き討ちにしたと、自慢気に書く感覚が、私には理解できない。それはともかく、関ヶ原合戦の前哨戦としての伏見城攻城戦は、こうして凄惨(せいさん)な結果に終わった。

養源院
養源院(写真=hiro/CC-BY-SA-3.0-migrated/Wikimedia Commons)

■鳥井元忠の忠義がもたらしたもの

前述の血天井、とりわけ養源院のものには、切腹した武士が悶え苦しんで這い回ったと思われる痕跡までが残されている。家康は戦後、この床板を見て、伏見城を最後まで守った元忠らの忠義に感激し、床板の保存を考えたと伝わる。しかも、だれにも踏まれないように天井に張ったのだという。

そして、元忠らが受けた仕打ちが、家康方を刺激したことはまちがいないだろう。徳川家の家臣の怒りは容易に想像がつくが、それだけではない。福島正則をはじめ、上杉討伐のために家康に付き従っていた豊臣系大名たちもまた、「豊臣公儀」のために動いていた。それなのに一方的に賊軍扱いされ、三成方に従わないと「天罰」といわれてしまう。

反発した武将たちの発奮が東軍の勝利につながったとすれば、鳥居元忠も東軍の勝利、ひいては徳川の天下獲りに命を賭して貢献したといえるかもしれない。

----------

香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。

----------

(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

デイリー: 参加する
ウィークリー: 参加する
マンスリー: 参加する
10秒滞在

記事にリアクションする

次の記事を探す

エラーが発生しました

ページを再読み込みして
ください