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なぜ秀頼は大坂城の堀の埋め立てを許したのか…大坂の陣の裏にあった「家康の寿命」をめぐる薄氷の駆け引き

プレジデントオンライン / 2023年12月10日 11時15分

方広寺鐘楼(京都)(写真=+-/CC-BY-SA-3.0-migrated-with-disclaimers/Wikimedia Commons)

1615年、徳川家康は大坂夏の陣に勝利し豊臣家を滅ぼした。歴史評論家の香原斗志さんは「豊臣方は家康の寿命が尽きるのを待っていた。時間を稼ぐために策を講じたがすべて失敗に終わった」という――。

■NHK大河の「方広寺鐘銘事件」の描き方は史実とは異なる

大坂の陣勃発のきっかけが、方広寺の鐘銘問題だったことはよく知られる。豊臣秀頼が京都の方広寺の大仏と大仏殿を再建した際に納めた梵鐘に、「国家安康」「君臣豊楽」の文字が彫られていたため、徳川方が、「家康」の文字を二つに刻んで呪詛しているとクレームをつけたのだ。そこから短時日のうちに決戦へと進んでいった。

この鐘銘が戦国最後にして最大の戦の導火線になったのは、なぜだったのか。それを解くと、徳川方と豊臣方、それぞれがなにを望んでいたのか明瞭に見えてくる。

NHK大河ドラマ「どうする家康」では第46回「大坂の陣」(12月3日放送)で、次のようなやりとりが描かれた。鐘銘の件について駿府(静岡市)の徳川家康(松本潤)のもとに弁明に行き、大坂城に戻った片桐且元(川島潤哉)が、大野治長(玉山鉄二)に向かって「修理(治長)、わかっておってあの文字を刻んだな?」というと、治長は「片桐殿が頼りにならんので」と返答した。

要するに、治長すなわち豊臣方は徳川方を怒らせる目的で、意図して「国家安康」「君臣豊楽」の文字を彫らせたという流れだった。その証拠に、第45回「二人のプリンス」(11月26日放送)では、銘文案を見た茶々が「おもしろい」といって不敵な笑みを浮かべていた。

しかし、豊臣方があえて鐘銘で徳川方を挑発した、という解釈は史実に反する。豊臣方にとっては時間稼ぎが必要で、戦を誘発しようと望んだはずがないのである。

では、なぜあのタイミングで、鐘銘問題を機に大坂の陣が勃発したのか。それを理解するために、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦以降の、家康の考えやねらいと、その変化を追っておきたい。

■西は豊臣、東は徳川でいい

関ヶ原合戦は天下分け目の戦いというよりは、豊臣政権が内部分裂した結果、起きたものだった。朝鮮出兵をめぐる、武功派と、豊臣秀吉の命を受けて彼らの落ち度を指弾する石田三成ら奉行衆との対立である。したがって家康は、徳川軍の主力を率いる嫡男の秀忠が関ヶ原に遅参したこともあるが、豊臣系大名たちの軍功のおかげで勝てたのだった。

このため、西軍に属した大名から没収した領地630万石余りのうち、520万石が豊臣系大名に宛(あて)がわれ、とくに西国は80%が豊臣系大名の領地となった。それでも、豊臣系の領地のあいだに徳川の譜代大名を配置すれば日常的に監視できるのに、家康は西国に徳川系大名を一人も置かなかった。近江(滋賀県)佐和山(彦根市)の井伊家より西には、徳川系が一人もいなかったのである。

笠谷和比古氏は「このような西国方面に特徴的な領地配置の意味するものは、この方面に対する家康および徳川幕府による直接的な統治を差し控えるという態度の現れだと考える」と記し、それを東西に二つの公儀が並立する「二重公儀体制」と呼ぶ(『関ヶ原合戦と大坂の陣』吉川弘文館)。

家康は関ヶ原合戦後、「豊臣家を超えて」大名を支配したが、それは「家康個人のカリスマ的力量」による支配にすぎない。だから、豊臣公儀に代わる徳川公儀を構築すべく征夷大将軍の座に就いたが、将軍とは全領主への軍事的統率権を有する軍事職。「他方、関白は天皇の代行者として日本全国に対する一般的な統治権的支配の権限を有する存在であるがゆえに、権限論的には将軍と並立する形で、武家領主一般に対する支配を行使しうるとする考えが成立ちうる」と笠谷氏は書く。

つまり、関ヶ原合戦から大坂の陣までは、「将軍たる家康の意命に服しても、潜在的に関白職に就くべく予定されている豊臣秀頼の臣下として、従前通りあることは充分に両立しうることとする観念」(笠谷氏)が形成され、家康はそれでよしとしていた、というのである。

徳川家康肖像画
徳川家康肖像画〈伝 狩野探幽筆〉(画像=大阪城天守閣蔵/PD-Japan/Wikimedia Commons)

■秀忠では「二重公儀体制」は機能しない

もう少し笠谷氏の論にしたがって話を進めたい。家康は「二重公儀体制」を安定させるために、孫の千姫を秀頼に嫁がせ、もう一人の孫の和子(まさこ)を後水尾天皇に嫁がせようとした〔これは家康死後の元和6年(1620)に実現した〕。こうして徳川が天皇の外戚になれば、豊臣家をつぶさずとも、西国の大名が徳川に弓を向けることはない、という考えだ。

しかし、年を重ねるにつれ、家康は考えてしまったはずだ。家康というカリスマがいればこそ「二重公儀体制」は機能するが、死後はどうか。朝廷の官職は2代将軍秀忠より秀頼のほうが上で、加藤清正、福島正則、浅野幸長といった秀吉恩顧の西国大名たちにとって、秀忠に従うべき義理はない。しかも、秀忠には関ヶ原に遅参したというマイナスイメージが付着している。

家康が没するやいなや、豊臣の関白政権が復活する芽は大いにある。笠谷氏は書く。「彼(家康)が自己の死と、徳川の行く末に思いを馳せめぐらせたとき、もはやきれいごとでは済まされなくなってしまったということであろう」。

とはいえ、豊臣家を滅ぼすか、無力な一大名の地位に追い込むには、西国大名に有無を言わさないだけの強大な軍事力が要る。その点で家康には幸運が重なった。慶長16年(1611)6月に加藤清正が急死し、同18年(1613)8月には浅野幸長も死去。秀頼が信頼できる秀吉恩顧の武将3人のうち2人が失われ、彼らに次いで豊臣家への思いが深い池田輝政と前田利長も没した。

そんなタイミングで発生したのが鐘銘事件だった。

■「方広寺鐘銘事件」の犯人

方広寺の梵鐘の銘を書いたのは東福寺の僧の清韓(せいかん)で、清韓自身が鐘銘に「家康」の文字を隠し題のように織り込んだと認めている。だから徳川方による難癖とはいえない。家康の名を鐘銘に無断で使用したのは、豊臣方の落ち度である。さりとて「どうする家康」で描かれたように、豊臣方が徳川方を挑発したとは考えられない。

その理由は曽根勇二氏が『大坂の陣と豊臣秀頼』(吉川弘文館)で端的に述べている。「大坂方の片桐且元が徳川方との調整を重視したのは、家康の寿命を考慮しながら、さらに朝廷や諸大名との交流を継続することによって、後継者の地位を獲得する計画でもあった。大坂方の立場からすれば『時間かせぎ』の戦略も必要であったのである」。

家康は方広寺の鐘銘問題が起きた時点で数え73歳。当時としてはすでにかなりの長寿だから、家康は、もしこのまま命が尽きたら、と気が気ではなかっただろう。一方の豊臣方には、家康の命はじきに尽きるから、そこまで耐えれば、という思いがあった。

だから、豊臣方が徳川方を挑発することはありえなかった。双方が同じ「家康の寿命」をめぐってぎりぎりの駆け引きをしていたのである。そこに発生した鐘銘問題は、徳川方にとっては、豊臣をつぶすためのまたとない機会となり、豊臣方にとっては、意に反して戦闘を避けられない事態に追い込まれることになった。

■なぜ堀の埋め立てを許したのか

しかし、大坂の陣が勃発してもなお、豊臣方は「家康の寿命」に期待をかけていた。それは冬の陣の和睦の内容にも表れている。和睦の条件が大坂城の堀を埋めることだったのはよく知られる。

これまでは、総構(外郭)の惣堀だけを埋めるという約束だったのに、徳川方が「惣」の字を都合よく「すべて」と解釈し、本丸以外のすべての堀を埋めてしまった、といわれてきた。しかし、種々の一次資料から、いまでは本丸を残して、ほかの堀はすべて埋めることが最初からの了解事項だったことがわかっている。

大阪城
写真=iStock.com/fotoVoyager
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/fotoVoyager

しかし、大坂冬の陣で大坂方が敗戦に至らなかったのは、幾重にも堀に囲まれた大阪城が難攻不落だったからである。なぜ大坂方は、自殺行為にほかならない堀の埋め立てを許してしまったのか。

史料から確認できるのは、二の丸や三の丸の破却と堀の埋め立ては、豊臣方がみずから行うことになっていた、ということである。ところが、豊臣方の工事はなかなか進まない。ここでも豊臣方は、のんびり進めれば「家康の寿命」が、という期待をかけていたフシがあるが、徳川方は諸大名に命じて一挙に埋め立ててしまった。

曽根氏は記す。「大坂・徳川方の両陣営では、互いに堀の埋め立てが了解されていたものの、何とか時間を稼ごうとした大坂方に対し、一気に時間を縮めた徳川方の戦法勝ちであった」(前掲書)。

■執念が家康に天下をもたらした

冬の陣における和解後、伊達政宗は堺の商人の今井宗薫に宛てた書状に、秀頼がすぐに大坂城を明け渡して大和(奈良県)か伊勢(三重県東部)に移り、大坂城にいる牢人をみな解雇しないかぎり、豊臣が生き残る道はない旨を書いている。

その判断は大坂にも伝わったはずだが、大坂方は耳を貸さず、再戦も辞さない構えだった。しかし、堅城たる大坂城がもはやなく、戦う余地はないはずだったが、なぜなのか。

「寿命」を恐れる家康は急いでおり、慶長15年(1615)4月4日には、名古屋城主の九男、義直の婚礼への列席を理由に駿府を発った。そもそも3月末には諸大名に動員令を出していた。ところが、4月5日には、すでに家康が発った駿府を大野治長の使者が訪れ、秀頼の移封を免じてほしいと懇願し、秀頼も義直の婚礼に祝意を表すなど安閑としていた。

豊臣方の認識はあまりにも温(ぬる)い。それもやはり、ひたすら時間稼ぎをしようとしていたからだと思われる。

「家康の寿命」をめぐる駆け引き、そして根比べは、家康の執念の圧勝で終わったのである。

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香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。

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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)

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