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なぜ品川駅は「品川区」ではなく「港区」にあるのか…そして品川駅の南に「北品川駅」が存在するワケ

プレジデントオンライン / 2024年3月4日 10時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/y-studio

なぜ品川駅は「品川区」ではなく「港区」にあるのか。なぜ歌舞伎の興行もないのに新宿に「歌舞伎町」があるのか。筑波大学名誉教授の谷川彰英さんの新刊『増補改訂版 東京「地理・地名・地図」の謎』(じっぴコンパクト新書)より、一部を紹介する――。(第1回/全2回)

■明治はじめに起きた「鉄道反対運動」

明治のはじめ、文明開化とともに東京にお目見えしたもののひとつに鉄道があった。日本初の路線は東京と横浜を結ぶことが決定し、イギリスから技術者たちを招いて計画が進められた。そして、1872(明治5)年5月7日、まずは品川~横浜駅が仮開業し、9月12日には新橋~横浜駅が本開業となった。

このように品川駅は最古の駅のひとつだが、じつは品川区ではなく港区にあることをご存じだろうか。不思議なことに駅名と所在地の区が合致していない。

【図表】港区にある品川駅
出典=『増補改訂版 東京「地理・地名・地図」の謎』

鉄道がどんなものなのかわからない時代ゆえに激しい反対運動が起き、結果的に駅の場所がずれてしまったのである。

品川といえば、江戸時代には東海道五十三次の第一の宿場として栄えた町。鉄道の計画を聞いて、住民たちは宿場がすたれ、失業者が続出するといった恐怖を抱いた。今なら鉄道が走って駅ができれば町の活性化につながると歓迎されるところだが、当時は未知の交通手段であり、どんなことになるのか想像もつかなかったらしい。

■大隈重信が出した「奇抜なアイデア」

強硬な反発により用地が確保できない状況に陥ったとき、奇抜なアイデアを出したのが、計画を推進していた大隈重信だった。海に目を向け、埋め立て地に線路を通せばよいと考えた。こうして昼夜を問わず干潮時をみはからって埋め立て工事が行なわれ、品川宿からは離れた埋め立て地に駅が誕生したのである。すぐ南は波打ち際だったという。

その後、1902(明治35)年になって最初の駅から300メートルほど北に移動し、品川駅はさらに品川区との境から離れていったのである。

また、1904(明治37)年には京浜急行の前身である京浜電気鉄道が、別の品川駅をつくった。これは品川区内にあり、品川の北に位置しているという意味から1925(大正14)年には「北品川駅」に改称された。このため、品川駅で京浜急行の普通電車に乗って南下すると、次が北品川駅という不思議な状態になっている。

さらに、駅名と区の不一致は、目黒駅でも起きている。1885(明治18)年に誕生したときには品川駅の隣だった古い駅だが、やはり住民の反対運動で位置がずれている。もともとは目黒川沿いの低地に線路を敷く計画で、そのとおりに進んでいれば目黒区内に駅ができるはずだった。ところが、目黒の住民たちは、ばい煙や振動などで一帯の田畑が大きなダメージを受けると猛反発、計画変更を余儀なくされた。線路は何もない坂の上へと追いやられ、目黒駅は品川区上大崎につくられたのである。

■荒川区には「荒川」が流れていない

「荒川区には荒川がなくて、隅田川はもともとは荒川だった」――。まるで謎かけのようだが、これは事実である。

なぜ、荒川区に荒川が流れていないのか。

この謎を解くには、荒川の歴史をたどると理解しやすい。

荒川は、遠い昔からその名が示すとおり、氾濫することの多い暴れ川だった。現在の埼玉、山梨、長野の三つの県境が接する甲武信ヶ岳を源とし、利根川へと注いでいた。現在では元荒川と呼ばれる川の流路が、これに当たる。そして、注ぎ込んだ先の利根川は、江戸時代より前は東京湾へと注いでいたのである。

利根川は古来、洪水によって道筋を幾度も変えてきた川だが、東京湾から離れたのは、なにも自然の業ではない。徳川幕府が人工的に流れを変えたのである。

【図表】荒川の開削史
出典=『増補改訂版 東京「地理・地名・地図」の謎』

一方で、荒川については熊谷付近で新たな流路をつくって南へ向かわせ、和田吉野川、入間川と合流する形にした。これにより新しい流路の水量は格段に増えた。その下流では、俗称として隅田川とも呼ばれるようになる。

幕府の行なった工事の目的は、江戸~川越の間の水運を円滑にすることだったが、これにより荒川は、水害で流域の人々を苦しめるようになる。

明治に入ると、1880(明治13)年、1884(明治17)年、1885(明治18)年、さらに1896(明治29)年、1897(明治30)年、そして1907(明治40)年と洪水が頻発した。

■荒川が消え、隅田川が流れることに…

極めつけは1910(明治43)年6~8月の断続的な大雨だった。荒川の各所で堤防がつぎつぎに決壊し、東京の下町は水浸しになって多数の命が失われた。

そこで翌年から水害対策として大々的に進められたのが、荒川に幅500メートルもの放水路を開削する計画だ。明治から大正、昭和までまたぐほどの歳月をかけ、今の北区の北にある岩淵から東京湾まで総延長22キロにも及ぶ荒川放水路がつくられたのである。

用地とされた面積は、1.1万ヘクタールにものぼり1300戸が移転した。買収の価格は安く、納得しない人も強制的に立ち退かされた。関東大震災に見舞われたこともあり、最終的に完成したのは1930(昭和5)年。長い工期と、多くの犠牲のうえにでき上がった放水路だった。

そのかいあって、一帯が大水害に襲われることは以降なくなった。川の流れは穏やかになり、川は人々の心をいやす水辺となった。そして、1932(昭和7)年に荒川区が誕生。南千住、日暮里、三河島、尾久という4つの町が合併し、ここを流れる大きな川の名、荒川という名をつけたのである。

ところが、1965(昭和40)年の河川法により、人工的につくられた荒川放水路のほうが荒川の本流と決められた。そして、分岐点となる岩淵水門から東京湾まで、もともとの荒川の流路を流れる部分は、隅田川を正式名称とすることになる。こうして、荒川区から荒川が消え、隅田川が流れることとなったのである。

■「歌舞伎」と縁がありそうでない歌舞伎町

新宿・歌舞伎町といえば、一大歓楽街として全国にその名を知られている。派手な色彩に輝くネオンが一帯を照らす不夜城であり、路地に回れば、なにやらあやしげな店が人々を誘惑している。ほかでは見かけることがない光景に出合う街、それが歌舞伎町である。

歌舞伎町のイメージ
写真=iStock.com/ke
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/ke

歌舞伎町を象徴するランドマークであり、待ち合わせの場所でもあったコマ劇場は、演歌の殿堂として中高年の男女が昼夜詰めかける劇場だった。2008(平成20)年で51年間に及ぶ歴史に幕を閉じ、隣接する映画館を含めて周辺の再開発が進められ2015年オープンの、シネコンやホテルが併設された新宿東宝ビルの8階屋外テラスには、大きさ12メートルの巨大なゴジラヘッドが設置され、新たなランドマークとなった。

コマ劇場の存在や歌舞伎町という町名から、この地は歌舞伎一座の本拠地だったとか、歌舞伎を催す劇場があったなどと想像する人が多いだろう。

だが、実際には歌舞伎町で歌舞伎一座がのぼりをたなびかせたことも、興行が行なわれたこともない。歌舞伎町は歌舞伎と縁がありそうで、ないのである。

■終戦直後に計画された「一大文化施設ゾーン」

歌舞伎町という名称が生まれた経緯は、太平洋戦争敗戦直後の1945(昭和20)年からはじまる。もともとこの一帯は、肥前(現在の佐賀県と対馬・壱岐を除く長崎県)大村藩主の大村家の屋敷があった場所。大正時代に入って女子校が建設された頃の住居表示は、角筈一丁目だった。女子校は空襲により移転していき、あとには焼け野原が残るばかりとなった。

そのとき、角筈一丁目北町会の町会長だった鈴木喜兵衛は、地域の復興を象徴する娯楽場所をこの地に建設しようと思いつく。終戦からわずか4日目から復興計画に着手したというから目を見張る行動力である。

2カ月後には、地主やかつての住民たちを集めて復興協力会を組織。区画を整理して焼け野原に一大文化施設ゾーンを建設しようと決定した。都の了承も得た構想には、芸能広場を中心として劇場や映画館、ホテルを建設することが盛り込まれていた。そして、劇場には歌舞伎用の劇場も含まれていたのである。

■幻の歌舞伎劇場「菊座」とは

この当時、演劇関係者の間では歌舞伎文化の衰退・消滅が心配されていた。外国軍の占領下で急速に西洋文化が広まるなか、日本の古典芸能である歌舞伎がないがしろにされていると危機感を抱いていた。

谷川彰英『増補改訂版 東京「地理・地名・地図」の謎』(じっぴコンパクト新書)
谷川彰英『増補改訂版 東京「地理・地名・地図」の謎』(じっぴコンパクト新書)

そうしたなかで浮上した歌舞伎劇場の建設計画。劇場名も「菊座」と決定した。町名にも、新しい文化地域にふさわしいものをという声が高まり、都の都市計画係から「歌舞伎町」という提案を受けたのだ。

この一大計画はたしかに進行し、菊座は設計が終わって、あとは建設に移るばかりだった。ところが、着工が遅々として進まないうちに、大建築物の建設禁止令が出される。その結果、菊座とその横に建設される予定だった新劇用の劇場は、建設中止に追い込まれてしまったのである。歌舞伎はこの地で演目が披露されるどころか、劇場もなく今日に至っている。結ばれるはずの糸は断ち切られたままとなったのだ。

それでも歌舞伎町という地名は残り、吉田茂首相の主導による産業文化博覧会の会場に選ばれたのを契機として、一大歓楽街へと発展することとなった。歌舞伎町を構想した鈴木喜兵衛町会長のイメージとはかけ離れた施設が集まるエリアとなり、まったく様相の違う形で発展したのである。

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谷川 彰英(たにかわ・あきひで)
筑波大学名誉教授、元副学長
地名作家。1945年、長野県松本市生まれ。千葉大学助教授を経て筑波大学教授。柳田国男研究で博士(教育学)の学位を取得。筑波大学退職後は地名作家として全国各地を歩き、多数の地名本を出版。2019年、難病のALS(筋萎縮性側索硬化症)と診断されるも執筆を継続。主な著書に『京都 地名の由来を歩く』(ベスト新書、2002年)に始まる「地名の由来を歩く」シリーズ(全7冊)などがある。

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(筑波大学名誉教授、元副学長 谷川 彰英)

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