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豊臣秀吉の「養子外交」示す書状、近衛家史料から発見…小早川秀秋を養子に出した経緯記される

読売新聞 / 2025年1月7日 5時0分

 豊臣秀吉が1594年、自身の養子で跡継ぎ候補だった小早川秀秋を、毛利元就の三男、小早川隆景の養子に出した経緯を記した有力公家の書状が確認された。隆景の代わりに九州北部の支配を任せるための養子縁組だったとの内容が記されている。朝鮮出兵で重要性が増す九州支配強化のため、秀吉が「養子外交」を積極的に行った実態を示す史料だ。

 書状は五摂家の筆頭だった近衛家の史料を所蔵する陽明文庫(京都市)で、同文庫と東京大史料編纂へんさん所による調査で見つかり、同所の遠藤珠紀准教授(日本中世史)が分析した。近衛家当主だった前久さきひさが息子に宛てて、同年に書いたとみられる。

 小早川家は中国地方最大の勢力を誇った毛利家を一門として支えていたが、隆景は当時、天下人秀吉の命に逆らえず、毛利家の本拠だった中国地方から離れた筑前(福岡県)の支配を任されていた。書状によると、隆景は筑前の「辞退」を申し出たが、秀吉は「いわれ(理由)がない」と不満を示し、代替案として「丹波中納言殿(後の秀秋)」に筑前を譲るよう命じ、秀秋を隆景の養子にすることになった。

 書状には、「泥酔して正体なく記した」とも書かれている。前久が誰から情報を得たかは記されていないが、遠藤准教授は「有力公家にとって、天下人秀吉の動向は最大の関心事だった。親交があった公家や武家と情報交換することも多く、前久は酒席で得た重要な情報として即座に書状に記したのだろう」とみる。

 豊臣家では前年に、秀吉の実子、秀頼が生まれ、秀秋の処遇が課題となっていた。一方で隆景は、当時行われていた朝鮮出兵の前線に近い筑前支配の任を望んでおらず、中国地方に戻ることを希望していたとされる。当時の情勢に詳しい九州大の光成みつなり準治・特別研究者は「秀吉には秀秋を通じて直轄的に九州を治めた方が効率的だという意図もあった。秀吉、隆景の意向が一致した養子入りの経過を示す重要な史料だ」と評価する。

 秀秋の養子入りは、これまで後世の軍記物などを基に「秀吉が毛利家を乗っ取ろうとした」などと推測されてきた。東京都市大の丸島和洋教授は「実際には、秀吉が毛利家や隆景の意向に配慮しつつ、『養子外交』を用意周到に進めた実態が分かる」と話す。

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