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「長篠・設楽原の戦い」 信長の本陣跡は新東名のPAからも歩いて行ける!?

バイクのニュース / 2023年6月15日 20時0分

武田家滅亡のきっかけとなった「長篠・設楽原(ながしの・したらがはら)の戦い」では、徳川家康の要請を受けて織田信長もやって来ました。信長が本陣とした「茶臼山」は、新東名高速道路「長篠設楽原PA」から歩いて行ける場所でした。

■信長の絶大な権力と、恐ろしさがうかがえる跡地

 奥三河の所領を巡って激しい争いを繰り広げた徳川家康と武田勝頼。「長篠城」の攻防は「長篠・設楽原(ながしの・したらがはら)の戦い」へと繋がり、家康と信長の連合軍が武田の騎馬隊を撃破。その後、武田家は滅亡への道を歩むことになりました。後の世に大きな影響を与えた合戦の地を、スーパーカブで巡ってきました。

「長篠城」から5km半ほど手前の「極楽寺山」から「平井神社」にかけて本陣を置いた信長。その跡をスーパーカブで訪ねた「長篠城」から5km半ほど手前の「極楽寺山」から「平井神社」にかけて本陣を置いた信長。その跡をスーパーカブで訪ねた

 訪れたのは信長の本陣跡です。家康からの救援の要請を受けて1575年5月14日、かつて今川義元(いまがわよしもと)を破った「桶狭間(おけはざま)の戦い」の時と同様に名古屋市の「熱田神宮」で戦勝祈願をして出陣。5月15日には家康の居城である「岡崎城」へ入り、5月18日に「長篠城」手前にある「設楽原」に到着。丸太を組んで「馬防柵」を作ったと言われています。その木材は「信長が岐阜城から持参した」という説と「家康が自ら用意したもの」という説がありますが、どちらかは定かではありません。

家康を最前線に置いた信長は、自らは「茶臼山」に本陣を移した。新東名「長篠設楽原PA」からも歩ける本陣跡へは、バイクを停めて長い階段を歩いた家康を最前線に置いた信長は、自らは「茶臼山」に本陣を移した。新東名「長篠設楽原PA」からも歩ける本陣跡へは、バイクを停めて長い階段を歩いた

 信長は、まずは「極楽寺」から「平井神社」にかけるエリアに本陣を置きました。現地の解説板によると、信長の記録にもそう書かれているようです。ただし、当時「極楽寺」はすでに戦で消失していたそうです。「信長本陣跡」とされる場所を目指して行くと、そこは「平井神社」でした。

「茶臼山稲荷神社」として祀られている本陣跡。お参りをしてから本陣を後にした「茶臼山稲荷神社」として祀られている本陣跡。お参りをしてから本陣を後にした

 じつはこの戦で、武田軍に大打撃を与えた奇襲があります。信長は酒井忠次(さかいただつぐ:徳川四天王の1人)に、武田軍のいる「鳶ヶ巣(とびがす)山」などの砦を別働隊として背後から奇襲させたのです。その軍議の場が「極楽寺」だったそうです。

 信長はその後「茶臼山」に戦の本陣を構え、戦況を誰よりも高いところから見ていたようです。

「織田信長戦地本陣跡」からの眺め。ひときわ高い位置から戦況を見下ろしていた信長の、絶大な権力と強さを感じさせる風景に思えた(写真右側に新東名下り線のPAがある)「織田信長戦地本陣跡」からの眺め。ひときわ高い位置から戦況を見下ろしていた信長の、絶大な権力と強さを感じさせる風景に思えた(写真右側に新東名下り線のPAがある)

 戦地本陣跡を実際に歩いて登ると、そこはまさに絶景。本陣跡の背後側に、現在は高速道路のPA(パーキングエリア)や街並みが眼下に広がっています。決戦場を向けば、当時は激しい戦闘の状況が手に取るように見えたことでしょう。

 家康を最前線に置き、自らは山の上で歌なども詠んでおり、まさに天下人らしい、自信がみなぎっている信長の姿が想像できたのでした。

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