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なぜ20年の絶縁生活になったのか牧野アンナが語る沖縄アクターズスクール創設者である父との関係

CREA WEB / 2024年2月29日 7時0分


牧野アンナさん。

 90年代を中心に安室奈美恵やSPEEDほか多数のアーティストを輩出した沖縄アクターズスクール。一度は安室奈美恵らと共にSUPER MONKEY`Sのメンバーとして舞台に立つも、安室との実力の差を痛感して早々にグループを脱退したと語る牧野アンナさん。

 その後はアクターズスクールに戻り指導役として注目されるが、時代の変化と共に徐々にアクターズスクールの人気も低迷していく。また、今まで絶対的存在であった父と娘の関係にも亀裂が入り、約20年に及ぶ絶縁状態を経験。一方で、24時間テレビにも出演した、ダウン症の子どもたちとのダンス教室、LOVEJUNXをスタート。新たな道も開拓していく。


寛子は3、4歳で髪をかき上げながら歌っていた


牧野アンナさん。

――SUPER MONKEY’S脱退後はアクターズスクールの指導者として活躍。SPEEDも指導されたそうですが、メンバーの印象はいかがでしたか?

牧野 (島袋)寛子は、3歳くらいからアクターズの幼児クラスにいて、最初から歌がうまいんです。工藤静香さんの歌を、3、4歳で髪をかき上げながら大人顔負けで歌っていて、あぁ、歌える子って本能で歌えるんだって思いました。


牧野アンナさん。

――指導する前から才能があったと。

牧野 (今井)絵里子は4歳くらいのとき。(安室)奈美恵が出ていたカラオケ大会に絵里子も出ていて、奈美恵を見てびっくりして、「私もあのスクールに入りたい!」と言って入ってきました。

 アクターズでは、自分でダンスの研究をしたり、周りの先輩から技術を盗んだりしながら自分のスタイルを作り上げていきますが、絵里子はその才能がすごいんです! 一時期、奈美恵の立ち姿から歌っている仕草まであまりにも似すぎていて、SPEEDのデビューが決まったとき、父に大丈夫ですかね……?って、聞いたくらい。

 父は、奈美恵のコピーをこんなにできるのは才能だし、これは通過点だから大丈夫。本人の意志もハッキリしていて、この先もっと自分を出していくから心配ないと言っていたら、まさにその通りでした。

 絵里子は昔からメンタル強かったですね。アクターズの子は学校でイジメられる子もいたんですけど、絵里子は学校で何か言われても言い返していて、あの子の強さは子どもの頃からだと思います。

 (上原)多香子は天然なのかな。(新垣)仁絵が年齢も上だし、一番大人だったように思います。

父の考え方が絶対じゃない。そう気付いていったんです


牧野アンナさん。

――アクターズ出身の方々の活躍が続く中、次第に経営が厳しくなったと聞いています。

牧野 アクターズが良かった時期って2、3年くらい。父が周囲とうまくいかなくなり、徐々に業界から干されていったんです。

――お父様の興味も教育方面にいかれたそうですね。牧野さんが残った生徒たちを見ていたとか。

牧野 アクターズからデビューすることも厳しくなって、表舞台に立つ以外に、照明や音響、編集などできることはないかと模索しながらショーを作ることにしたんです。父にもお願いしてショーを観に来てもらいましたが、これがダメだった。

 「ショーのレベルが低すぎる!」と逆に怒りを買うことに。インストラクター達を集めて、アクターズのレベルが低くなったのはアンナのせいだと言うんです。しかも、父の発言に誰も反応しなかったのが更に怒りに火を注ぎ、「お前らはアンナ派なのか! それなら俺は今日で辞める!」と言って出て行っていってしまいました。

 急に父と敵対する立場に置かれて戸惑いましたが、とにかく父に頭を下げて、翌日もアクターズに来てもらうようにお願いして。

 翌日は、全員空気を察して父側につくことに。父は0か100の性格なので、「俺に着くということは、アンナは敵だ。一人一人、アンナの嫌なところを言ってみて」と言い、みんなも流れに同調しました。私も「自分のやり方がよくなかったです」「無意識にアクターズを乗っ取ろうとしていました」とひたすら土下座をしました。そうしなければ終わらないんです。

 その結果、父がこれからアクターズを見る。私は生徒が減少している横浜のアクターズに異動を命じられました。


牧野アンナさん。

――かなり激しい展開ですが、横浜に異動後はいかがでしたか?

牧野 大きな転機になったというか…。今までは、自分はアクターズしか見ていなかったけど、東京では誰もアクターズなんて見ていない。

 父が芸能界で「ダメだ」と言ってた人は全然ダメじゃなかったし、長年活躍している人が、どれだけすごいのかも分かりました。父の考え方が絶対じゃない。そう気付いていったんです。

レッスン以外、自分の部屋から出られないように


牧野アンナさん。

――アクターズでも、気づきの影響はありましたか?

牧野 父は、自分の考えをインストラクターたちに植え付けましたが、私は自分の考えが全てじゃない。何かあればみんなで話し合うスタイルを作っていきました。

 でも、父が横浜アクターズの様子を見に来たとき、生徒の一人が父に意見を言ったんです。父が速攻「クビだ!」と告げたとき、私が自由に発言していいと言ったからこうなった。もう、アクターズにはいられないと思いました。

 ただ、自分がアクターズしか知らないので、辞めたくても何をしたらいいのかわからない。今思えば鬱に近かったと思いますが、レッスン以外、自分の部屋から出られなくなって。数カ月はずっと泣いていましたね。


牧野アンナさん。

――その頃、ダウン症の子どもたちの舞台の演出のお話が来たのでしょか。

牧野 アクターズの業務と並行して、ダウン症の子のイベントの演出を依頼されました。半年間限定の約束でしたが、イベント終了後も、ダウン症の子のお母さんたちがレッスンを続けてほしいと仰ってくださったんです。やりたいことがわからなかった自分にとって、光が見えた気がしました。

 結局、アクターズを辞めてダウン症の子どもたちのレッスンをやっていくことに。父は、応援はするけどアクターズを辞めたやつとはつるむなと。でも、これからは自分の意志で動いていく。アクターズを辞めた子たちにも一気に連絡を取ったし、なかにはダウン症の子どもたちのレッスンを手伝ってくれる子もいたんです。

 しかし、その話が父の耳に入ると「アンナとは絶縁だ」と。私にも父が怒っているらしいと耳に入って、父とは直接話をしないまま、静かに絶縁していきました。そこから20年ですね。


牧野アンナさん。

――20年間、一度も連絡をとることはなかったのでしょうか。

牧野 正確には絶縁して8年経ったときに会いに行ったんです。妹から、父が会いたがっていると言われて行きましたが、結局大喧嘩になってしまって。そこからはお互い意志を持って絶縁しました。

牧野アンナ(まきの・あんな)

1971年12月4日生まれ。東京都生まれの沖縄育ち。沖縄アクターズスクール代表取締役COO兼プロデューサー。LOVEJUNX代表。父・正幸は安室奈美恵などを輩出した沖縄アクターズスクール創設者。

文=松永 怜
撮影=佐藤 亘

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