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映画を自分ごととして〈わかる〉〈おもしろい〉ってどういうことだろう? と考えた「異人たち」「異人たちとの夏」「94歳のゲイ」【二村ヒトシコラム】

映画.com / 2024年5月4日 20時0分

 「異人たちとの夏」を僕は30年くらい前に一回観たきりでした。そのときは「なんだか変な映画だな」という感想だったことを覚えてます(89年の日本アカデミー賞受賞作なんですけど)。

「異人たち」はホラー映画ではありません。恐ろしくない幽霊、というより自分自身の過去そのものと、主人公が向きあう話です。ところが同じ物語である「異人たちとの夏」は途中から変調して怖がらせようとしてきたような。それが映画「異人たちとの夏」と「異人たち」の決定的にちがう部分で、だいじなところのはずなんですが、その大切な部分がなんだか変だった、という印象なのです。

 恐ろしい話なのに、むしろわざとヘンテコに見せる映画といえば同じ大林宣彦監督の商業デビュー作「HOUSE ハウス」がそうですが、僕は「HOUSE」は大好きなんです。ヘンテコさがじんわり怖いし、恐ろしさとヘンテコさがそのまま叙情にもなっていた。「異人たちとの夏」の変さは「HOUSE」のそれと比べると、ぜんぜん怖くなかった。怖がらせることに失敗していたような記憶が。

 ということばかり覚えていて、かんじんの片岡鶴太郎の演技とかをあまり覚えてなかったんですね。でも、すごい気になったので「異人たち」を観て家に帰って、すぐに配信で「異人たちとの夏」を観たんです。

 「異人たち」の話の流れは「異人たちとの夏」に途中まで忠実でした。風間杜夫が演じる原田もアンドリュー・スコット演じるアダムも孤独こじらせおじさんなので、せっかく性的に親密になってくれそうな若い人(名取裕子が演じる桂、ポール・メスカル演じるハリー)を、自分の孤独な部屋に最初は迎え入れません。まあ桂もハリーも、いささかヤバげな人だからなのですが。

 その後、原田もアダムも自分が生まれ育った街で、早くに死んでしまった両親(大林版では片岡鶴太郎と秋吉久美子、ヘイ版ではジェイミー・ベルとクレア・フォイ)と出会います。亡くなったころそのまま、いまの主人公より若くイキイキしている両親。最初は「自分たちがもう死んでいることに気づいてないタイプの幽霊なのかな」と思いましたが、どうもそうではない。死者である、つまり息子にとっての異人であることのさみしい自覚はある。

 もう死んだ人と会う夢って、そうですよねえ。時間感覚もそうです。タイムスリップしたわけではなく、死んだ両親がそのまま現代に生きている。彼岸と此岸が溶けている感じ。両親は息子だけが歳をとったことを不思議がらず、彼が育った家に迎え入れます。あちらとこちらを行ったり来たりするうち、主人公の孤独(状況としての孤独ではなく、他者をすなおに受け入れることがむずかしいという彼の心の性質)は癒され、やがて彼はこちらの世界で、あの若い人(ハリーや桂)とも親密になっていきます。それが2本の映画に共通の流れです。

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