【日本モード誌クロニクル:横井由利】9/12--パリを身近に感じる『マリ・クレール』の創刊 

FASHION HEADLINE / 2014年1月3日 21時0分

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『マリ・クレール ジャポン』創刊号1982年7月号(中央公論社刊/現中央公論新社)

1982年5月、『マリ・クレール ジャポン』は中央公論社(現中央公論新社)より創刊した。

中央公論社は、1917年に創刊した『婦人公論』より若いターゲットに向けた、婦人誌の創刊を模索していた。当時の社長、嶋中鵬二の長男、嶋中行雄がパリ支局長の時、フランスにも『婦人公論』とコンセプトが近い女性誌『marie claire』があることを伝えると、発刊に向けて嶋中行雄、創刊編集長となる吉田好男、後に『マダム・フィガロ』の創刊編集長となる瀬古篤子の3名が、マリ・クレール アルバム社とのライセンス契約に臨んだ。

当時の仏『marie claire』は、女性が抱えている問題を解決する婦人誌の役割にプラスして、モードページで高い評価を得ていた。オールバックにタバコをくわえたスタイルが印象的なクロード・ブルエという、モードの編集長の貢献が大きかったと言われている。余談だが、後にブルエは、エルメスのモードディレクターとなった。

創刊号の表紙は、黄色のニットに、カノチエを被ったソバカスの外国人モデルが飾った。雑誌の性格上、尖ったモード写真というより、親しみやすいパリジェンヌのイメージを前面に打ち出した。

80年代初期のパリのモードは、ポストモダン期を迎え、それまでの西洋の服に飽き足りない、ジャーナリストやバイヤーの心を揺さぶる、あらゆるスタイルのコレクションが登場した。

日本を代表する、川久保玲率いるコム デ ギャルソン、山本耀司率いるY's(パリではヨウジヤマモトとして発表)、NYを経てパリデビューを果たしていた三宅一生は、その中にあって存在感を示した。ただ、最初から受け入れられたわけではない。時を同じくデビューした、ロンドンのストリート感覚を取り入れたジャンポール・ゴルチエ、西洋美を構築的に表現したクロード・モンタナ、彗星のごとく登場しクチュール界を活気づけたクリスチャン・ラクロワなどなど、モード百花繚乱の時代が到来していた。

パリコレにデビューした当初、コム デ ギャルソンとヨウジヤマモトは、東洋の異物と捉えられた。時代の変化に敏感な編集者やジャーナリストが、この異物こそこれまで西洋には無かった美意識、モードの新しい価値観であることを認めるには、それほど時間は掛からなかった。

仏『marie claire』のモード編集長ブルエもその1人で、日本人デザイナーの服にいち早く興味を示し、積極的にファッションページで紹介した。日本デザイナーのエスプリをファッションページにするのに、仏『marie claire』で、ファッションエディターを務める、山崎真子の存在は大きかった。パリコレ取材に出掛ける度に、フランス式のファッションページの作り方や、ブランドとの付き合い方を聞いては、日本のモード誌の環境が整うには、ほど遠いことを痛感した。

当時、海外メディアのエディターとして、日本人が仕事をするなど夢のような話だった。ピエール・カルダンの専属モデルとしてパリへ渡った松本弘子が、『Paris VOGUE』で日本企業とのパイプ役的な仕事をしていた以外、メディアの中枢で仕事をしていたのは山崎真子だけだった。彼女の仕事ぶりは、後に『マコの撮影日記』というタイトルで連載され、サシャ、駆け出しの頃のピーター・リンドバーグやパオロ・ロベルシなど、今となっては大御所フォトグラファーとのシューティングの模様が綴られた。80年代の半ば、欧米のモード誌に憧れる日本のエディターにとっては、垂涎ものの企画だった。

(10/12に続く。)

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