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『SEVENDAYS FOOTBALLDAY』:大島秀夫という生き方(横浜F・マリノスJY追浜コーチ・大島秀夫)

ゲキサカ / 2019年4月29日 7時3分

 フリューゲルスの悲しい結末は、あえて言うまでもないだろう。「もう本当に他人事というか、訳が分からなかった。『チーム消滅ってなんだよ。大丈夫でしょ。なくならないでしょ』『ああ、なくなるんだ』『でも、オレらは京都に連れて行ってもらえるんだ』と、もう流れのままに」。伝説の天皇杯決勝はベンチに入っていた。「あの場にいられた、あの一員でいられたのは凄く財産。(吉田)孝行さんの素晴らしいゴールで優勝してね」。そんな大島のキャリアは、ここから波乱に富んでいく。

 京都パープルサンガでの2年目も終わろうとしていた2000年の秋。1枚の紙きれで、20歳の青年は職を失った。「面談の最初に『ちょっとオマエは甘い。厳しい環境に行って危機感持ってやらないとダメだ』と言われて、少し前にどこかの強化部長が来ていたし『じゃあ、あそこのレンタルかなあ』『いろいろなレンタル先を提示されるのかなあ』と思ったら、紙に“ゼロ”って書いてあって」。

 いわゆるゼロ提示。あまりに唐突で実感が湧かなかった。「だからウィキペディアにも載ってるけど、そのすぐ後でゲーセンに行って。今の教え子たちも『ゲーセン行ったんですか?』って聞いてきやがって(笑) でも、それはホント。ヤットとかとみんなで行ってたから。確か馬を育ててたかなあ」。

 セレクションの要項は渡されたものの、申し込むのも、電車の切符を取るのも自分。その段階でやっと事態の重大さを飲み込む。「オファーがなかったらもうサッカーは終わりだから、そのへんでやっとスイッチが入ったね」。必死に挑んだ練習会。いくつかのクラブを受けた中で、横浜FCとモンテディオ山形の合格を勝ち獲る。「昔だったら横浜FCを選んでいたかもしれないけど、話を聞いて『必要とされている方でもう1回頑張ろう』って思えたのが山形だった」。再起を懸け、未知なるみちのくの地へ仕事場を求めた。

 結果から先に明かせば、山形での4年間が大島の“職業欄”にプロサッカー選手と書くことを許してくれたと言っていい。「最初はロッカールームがなかったから、部屋にパイプ椅子が置いてあって、そこで着替えてって感じだったし、もちろん洗濯も自分だったけど、『もうやるしかない』と。ここでダメだったら本当に終わりだったし、当時のモンテはJの中でも一番下って感じだったから」。

 忘れられない試合がある。2001年3月10日。モンテディオの選手として初めて戦うJ2の開幕戦。相手は奇しくもパープルサンガ。「『見返してやる』って気持ちは強かったよ。『見てろよ』って」。大島は後半27分から途中交替で西京極のピッチへ投入されると、その11分後にコーナーキックからヘディングでゴールを陥れる。フリューゲルス時代から数えて4年目。これが彼のプロ初得点だった。「ディフェンスとの駆け引きは憶えてる。1回行くフリして止まって、相手が止まった瞬間にまた出て行って、前で触って。4年だもんね。『長く掛かったなあ』って思ったなあ」。

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