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『SEVENDAYS FOOTBALLDAY』:大島秀夫という生き方(横浜F・マリノスJY追浜コーチ・大島秀夫)

ゲキサカ / 2019年4月29日 7時3分

「表にはそんなに出してないけど、メチャクチャあった」と振り返るのは日本代表への想い。「だけどやっぱり(イビチャ・)オシム監督で、『基準がオレ向きではないから難しいだろうな』って。たぶん結果とかじゃないでしょ、あの人の選ぶ基準って。『オレは運動量が少ないからな』って(笑) でも、その時期だったら『全然やれるな』という想いはあったよ」。

 ところが、翌年は“暗転”のシーズンとなる。「春先の試合でキーパーと激突して膝の骨が凄く痛くて、そこからバランスがおかしくなって、全然体の調子が良くなかったね。そして、マリノスを去るっていう。たぶん構想外。良く言えば『“ゼロ”にしてあげたら移籍しやすい』という当時の流れかな」。F・マリノスに在籍したのは、モンテディオとまったく同じ4年。キャリアを遡れば、この“4年×2”が最もサッカー選手として輝いていた時に当たるのかもしれない。

 個人的に“もしも”と思っていたことがあった。2007年12月。オシム監督の病気による退任を受けて、岡田武史が日本代表の指揮官に就任する。「もしも、あの“14ゴール”が1年遅かったら…」。あえて本人にぶつけてみると、珍しく口調が速くなった。「メッチャ思うよ。メッチャ思うし、つくづくそういうのにオレは運がないっていう。例えば今の時代だったら、海外っていう視野もあったと思うし。タイミングが悪いんだよね」。すぐに柔和な笑顔が隠したが、この一瞬に滲んだ本音は強く印象に残った。

「オレは良いプレーができた記憶があまりないから。点もあまり取れなかったし、チームのためになりたかったな。心残りはある」。アルビレックス新潟で2年半。ジェフユナイテッド千葉で半年。コンサドーレ札幌で1年。合計で4年間を過ごしたいずれの地でも、結果という意味での貢献はできなかった後悔があるが、札幌の地では望んだ“再会”を果たしている。「また河合竜二さんとサッカーができたのは嬉しかったね。竜二さんはF・マリノスの頃から仲良くて、人見知りのオレは同年代だったから話すようになって。そこは楽しかったな」。

 2013年。かつてモンテディオで指導を仰いだ柱谷幸一監督の誘いを受ける形で、大島は自身8つ目のプロクラブとなったギラヴァンツ北九州へ移籍する。そしてここでの4年間が、新たなサッカーとの関わり方を彼に芽吹かせていく。

「まだ整備されていないちっちゃいクラブだったから、“チームを良くしていくための自分”って考え方でやっていたというか、もちろんサッカーで自分が活躍してというのもあったけど、そうじゃない立ち位置の時に何ができるかって。それがベテランの1つの存在意義で、何かしら若いヤツに気付かせたり、クラブに『もうちょっとこういうことを』とか要求したり、『少しでも良いクラブになっていくための何かになってくれたらなあ』っていう感じかな」。

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