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新法党・朱子学・陽明学:エリートに存在意義はあるのか?/純丘曜彰 教授博士

INSIGHT NOW! / 2018年10月16日 6時31分

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純丘曜彰 教授博士 / 大阪芸術大学

/千年も前の中国の話? そんなの関係ない、と言うなかれ。じつは現代日本の政府や大企業、そして社会の問題状況ととても似ている。建前の平等と現実の格差。建前だけを押し通そうとしても、現実はいよいよ動かなくなる。かといって、本音をさらせば、世に叩かれる。いったいどうやって折り合いをつければいいのか。/


第一章 朱子学前夜:制度改革か人材教育か

/いくら制度を改革しても、その実施を担うにたる優れた人材がいなければ、実効力は無い。むしろ、真に優れた人材を育てることができば、制度を改革するまでもない。/


王安石の新学新法

五代十国時代(907~79)と言うと、なにかとても混乱していたかのようだが、隋や唐のような安定した統一王朝が無かった、というだけで、かならずしも戦乱に明け暮れていたわけではなく、じつはむしろこの時代に、地方ごとの小国がたがいに競って内政充実に努め、地域産業と商業経済が飛躍的に発達した。

979年にようやく宋朝が中国を再び統一。隋唐同様の律令制で国家の体裁を整えたが、賦役(労働徴用)など、もはや産業と経済の実態に合わず、多くの役職が「冗官」として無意味に残存する一方、時代に対応するために「使職」と呼ばれる役職が大量に増設され、官僚の数が爆発的に増大。彼らは、とくに華北で、その免税特権を駆使して官僚と商人と地主を兼ね、地方名家として地域を寄生支配する「士大夫」階級となっていた。この富裕連中の搾取のせいで、庶民は統一前よりも貧しくなって税収も減り、おまけに西北異民族との長引く戦争で国家財政は赤字に転落。

王安石(1021~86、37歳)は一地方官にすぎなかったが、1058年、政治改革を上奏して注目を集め、69年、実質的な宰相に抜擢される(48歳)。彼はもとより新興南部の出身で、華北の士大夫(地主商人官僚)のような利権とは無縁であり、科挙を改革して自分に賛同する有能な若手のみを大量に登用し、これを中央や地方に配置、士大夫たちの旧来の既得権を制限、自立した中小の商人や農民の育成を図る「新法」(「熙寧変法」)を強引に実施した。

王安石が独善的に科挙の正解とした「新学」は、儒学は儒学でも、従来の訓古学のような些末な古典知識の膨大な寄せ集めではなく、古典の一つで周王朝の理想制度を論じた『周礼』(しゅらい)の斉民思想に基づく。すなわち、一国の下で万民はみな等しくあるべきであり、その習俗を統一し、抑強扶弱することこそが義とされる。ただし、天道の聖と人道の仁は表裏一体であり、義に徹してこそ、国や民の利ももたらされる、と考えている。王安石は、この万民習俗の理想として『孟子』の性善説を考え、これを従来の古典や『論語』と並ぶものとして重視した。


旧法党の反撃

この新学と新法党の改革は、当然、旧来の儒学を学んできた既得権側の華北士大夫階級から大きな反発を招いた。その中心となったのが、司馬光(1019~86、51歳)。これに劉摯(1030~97、39歳)、程顥(ていこう、1032~85、37歳)、蘇軾(1037~1101、32歳)らの中堅若手が加わり、「旧法党」と呼ばれた。王安石は配下の新法党とともに対決の姿勢を崩さず、旧法党を次々と地方に左遷し、権力を独占して、改革を強引に推し進めた。

74年の大旱魃をきっかけに、王安石はわずか5年で失脚。しかし、政権内部に新法党は根強く残り、混乱を悪化させた。開封の朝廷を追われ、西の洛陽に落ちていた司馬光とそのシンパの「洛党」は、徹底的な反撃を開始し、外野から新法廃止を要求する。一方、河北出身者が多い主流の劉摯ら「朔党」は朝廷に戻って、官僚内で新法党と対立。程顥は、洛陽出身ながら、中央の政争に懲りて、地方官として転々とすることに甘んじ、学問に生きた。蘇軾も、左遷された荒れ地の湖北でなお悠然と詩や書に親しみ、融和寛容な解決を求め、彼を慕う官僚たちが「蜀党」となった。

旧法党は、なにも自分たちの士大夫としての利権を守るためだけに新法に反対したのではない。現実問題として、いくら制度を変革しても、その実務を遂行できる有能な人材は、当時の中国において、地方名家出の士大夫たちのほかに存在していなかったのだ。王安石が新学科挙で在野の逸材を集めようとしたとはいえ、実際の新法党は、従来の士大夫の利得をわがものにして人生の一発逆転を図ろうという、権勢欲に目がくらんだ、うさんくさい小物連中ばかり。学識や公平性、道徳観、指導力という意味では、すでに裕福で鷹揚で、地域での人望を集めている従来の士大夫たちのほうが、はるかにましだった。

もちろん、司馬光も、士大夫ばかりが安穏と裕福になり、庶民が貧しいままで、国家財政が傾くような状況をよしとしていたわけではない。彼は、王安石が中心に据えた『孟子』を、君臣の義を軽んじて革命をも認めている、として批判する一方、「洛学」として、『礼記』(らいき、礼に関する論文集)の中の『大学』を取り上げ、その序の、天賦の才は等しくはありえない、だから世間に秀でた者が庶民を治め教えるべきだ、との節を引いて、王安石の斉民思想を批判。地方振興の原動力として、まさに士大夫たちが必要だ、と主張した。しかし、そのためには、士大夫は物欲を斥け、以下、『大学』に述べられている八条目に従って自己研鑽に努め、ひいては天下を治める気概をも持たなければならない、とした。

一方、同じ旧法党でも、あえて地方官として生きることを選んだ程顥は、自然を愛し、天理を学び、その中に「道」としての一体の気を直観的に感じ取り、庶民はもちろん世界の痛みや喜びを自分のものとする「仁」をめざした。ここにおいて、彼は、司馬光と違って、王安石が理想とした、性善説の仁を解く『孟子』を高く評価し、後に彼の思想は「道学」と呼ばれることになる。また、文人の蘇軾は、『孟子』は嫌ったものの、艱難苦境にあっても動じない内面の強さを磨くことを求め、儒学のみならず、道教や仏教をも学び、三教合一の「蜀学」を興した。


変転と混迷

85年、新法党を擁護してきた皇帝神宗が死去、新皇帝哲宗(てっそう)がわずか10歳で即位すると、祖母后が実権を握り、旧法洛党の領袖、司馬光(66歳)を宰相に。先に朝廷に戻っていた旧法朔党の劉摯らは、司馬光を焚き付け、新法および新法党の一掃を図る。洛陽出身の温和な程顥はあえて地方で学問に生きることを選んだが、その弟、程頤(ていい、1033~1107、52歳)は、もともと科挙に失敗して官僚にすらなれなれず、在野に埋もれていた。にもかかわらず、厳格な修養によって、だれでも聖人君主になれる、との屈折した考えを抱き、古代儀礼に執着拘泥した。博覧強記で復古主義の司馬光は、この程頤を好み、自分の後継者として強引に新皇帝の側近に送り込んだ。

しかし、翌86年、司馬光が死去。代わって融和寛容な旧法蜀党の蘇軾(49歳)が呼び戻される。彼らは新法にも一定の理解を示し、全面復古や派閥対立を好まなかったが、司馬光の意向を継いだ程頤は、新法絶滅はもちろん、それ以上に、現実の政治状況を無視したまま、学識の信念のみに基づいて古式回帰を強硬に主張し、蘇軾らは、やむなくこれを辞めさせた。しかし、これがきっかけでかえって旧法党内での派閥対立を起こしてしまい、新法党復帰を認め始めていた旧法朔党も反蜀党に回り、91年、蘇軾は失脚。94年、哲宗が親政を始めると、新法党が再び政権を握り、旧法三党を左遷追放。1100年、哲宗が死去し、弟の徽宗(きそう)が即位して、新法党でも穏健派に入れ替え、ようやく対立を収めようとしたが、容易な状況ではなかった。

もはや成り上がり官僚たちの新学新法が主流であり、地方名家だった旧法党の士大夫たちには中央官僚としての栄達の道は閉ざされた。しかし、ここにおいて「洛学」の司馬光の構想、士大夫こそが地方振興の原動力として必要とされている、との自覚が彼らに芽生えてくる。中央官僚として栄達せずとも、地方にあって一体の気を感じて天理を知る八条目の厳格な修養によって、天下を治めるに等しい聖人君主となれる、との程顥程頤兄弟の考え方は、彼らに新しい生き方を与えた。そして、ここに朱子学が生まれてくる。



第二章 社会にエリートは必要か?:三分でわかる朱子学

/一国の下に万民は等しくあるべきであるという新学新法は、特権的なエリートである士大夫(地主商人官僚)の存在を根底から否定するものであった。このため、朱子は、万民が等しく性善であるにしても、現実の人間には優劣があり、そのエリートこそが庶民を治め教えるべきだ、ということを理論づけようとした。/


士大夫の没落

北方の異民族の金国が皇帝を掠って、北宋が滅亡。1127年、帝弟が南京市に南宋を再興。天才的な博学で科挙を通った宰相の秦檜(しんかい、1091~1155)が軍閥主戦派を強引に排除し、42年、金国への服属という屈辱的条件ながら和平を実現。しかし、これによって南宋はこれまでの莫大な軍事負担を除くことができ、民間経済は劇的に回復した。

税補足されないような都市部の零細民間経済の発展で、政治的な免税特権に依拠していた地方の士大夫(地主商人官僚)の社会的地位は相対的に押し下げられた。とくに旧法残党の士大夫たちは、北宋滅亡の原因は新法であり、秦檜は売国奴である、と批判したために、軍閥主戦派とともに弾圧されるところとなった。

その中心となったのが、朱子(1130~1200)。ぎりぎりの成績で科挙に通ったものの、最初から地方の帳簿係に飛ばされ、早くも30歳で体調不良を理由に薄給名目職となって、故郷の崇安(武夷山市、福州市と南昌市の間の山奥)の紫陽書院に下がり、学問に打ち込んだ。おりしも秦檜が死去した直後でもあり、朱子は、旧法残党士大夫の巻き返しの期待を一身に集めることとなった。

朱子学の根底にあるのは、主流派の新学新法に対する思想的・政治的な批判である。王安石(1021~86)の新学は、周王朝の理想制度を論じた『周礼』(しゅらい)の斉民思想に基づく。彼は、『孟子』の万民性善説から、一国の下で万民はみな等しくあるべきである、とした。しかし、これは同時に、特権的な士大夫の存在を根底から否定するものでもあった。そして、実際、抑強扶弱を旨とする彼の新法の下で、中小の個人の農家や商人が大量急激に成長し、北宋の経済を劇的に隆盛させた。

王安石の同時代の旧法洛党の司馬光(1019~86)は、『孟子』を否定し、『礼記』(らいき、礼に関する論文集)の中の『大学』を取り上げ、その序の、天賦の才は等しくはありえない、だから世間に秀でた者が庶民を治め教えるべきだ、との節を引いて、王安石の斉民思想を批判し、士大夫の必要性を説いてはいる。

しかし、『孟子』か、『大学』か、という古典同士の権威の争いでは、すれ違いで議論にならない。そこで、朱子は、『孟子』の言うように万民が等しく性善であるにしても、やはり『大学』の言うように人間には優劣があり、政治と社会を牽引するエリートの士大夫が必要である、と理論づけることが目標となった。


理気二元論

一言で言えば、理屈と現実の違いだ。形而上と形而下、この二つの世界の違いを、朱子は古い陰陽五行説で説明した。すなわち、天、太虚(物質のない世界)なら、『易経』に説かれている陰陽の道理どおりになる。ところが、現実では、この道理を物質が担わなければならない。しかし、物質には木火土金水という五気の性質が乱れ混じっている。このために、現実は道理どおりにはならない。

現実の物質は、木火土金水、五気の複雑な組み合わせでてきている。そこには、木生火、火生土、土生金、金生水、水生木と循環生成関係がある一方、木剋土、火剋金、土剋水、金剋木、水剋火の静止妨害関係があり、これらによって、陽の動と陰の静とが起こるが、これらの五気から生じる動や静は、かならずしも天の陰陽の波に沿うとはかぎらず、そこで事を荒立てることになってしまう。

言ってみれば、理気二元論は、物理学(エネルギー論)と物性論(化学)の違い。もともと陰陽の二気は静動のエネルギーの話で、木火土金水の五行は物質の相性の話。計算上、図面上はうまくいくはずでも、実際の部品が熱で膨張すると、うまく動かない。キャリアや能力からすればA部長の補佐にB課長が適任だとしても、前にA部長とB課長が同じ女を争って大ケンカしたというような因縁があると、うまくいかない。

しかし、現実以前に理論からして、陰陽論と五行論は、つながりが悪い。陰陽は孔子が信奉した『易経』の話だが、五行はむしろ道教の話。「理」の方が陰陽の二気で、「気」の方が木火土金水の五行なのも、うさんくさい。陽が濃縮して木や火が、陰が濃縮して水や金ができたが、老陽から老陰への反転の混乱で土になるので、木火土金水で循環する、とか、木火金水の変わり目ごとに中立的な土になる、とか、気の陰陽に現世の土が混ざることで木火金水になる、とか、かなりあいまい。おまけに、木火土金水のそれぞにも陰陽があって十干(じっかん)をなしており、陰陽から五行ができたとすると、火の陰(丁)、水の陽(壬)って、どういうこと? となってしまう。エネルギーから物質ができる、なんていうのは、現代の科学でも面倒なところ。

たしかに五行は『書経』にも出てくるし、『孟子』も引用している。しかし、孔子では言及されておらず、『書経(尚書)』の「堯典」(中国最初の神帝の歴史)が作られたのが、せいぜい戦国時代(孔子より後、孟子よりは前)。となると、五行は、むしろ戦国時代のアイディア、それどころか、この時代、アレクサンドロス大王の東征でシルクロードが劇的に発達したので、ひょっとすると遠い古代ギリシアのアリストテレス(BC384~22)のアイディアの可能性もある。


中正の敬であなたも天下取りの聖人になれる!

さらにアリストテレス哲学(錬金術)と同様、朱子学は、体/用を区別する。体は潜在する性質(デュナミス)、用は内実ある現象(エネルゲイア)。抽象的な愛というのは体、具体的にだれだれが好きというのは用。現実の事物は、それぞれ、体として、あらかじめ理(類)の性と気(個)の性があり、用として、具体的に多様に発現してくる。しかし、この用が理から外れてしまうのは、理の性よりも気の性の複雑な干渉に引っ張られてしまっているから。たとえば、厳格で知られる裁判官でも、自分の息子の犯罪に刑を科すとなると、甘くなってしまいがち。

そこで、朱子は、用が理から外れないためには、すでに体の段階で、気の性が理の性に合う(中正)ようにしておくべきだ、とする。この問題は、人間の場合に甚だしい。人間は、理の性としては性善であり、仁義礼智信の五常を持っており、これが四端の情(惻隠・羞悪・辞譲・是非)という用として発現するが、五気の性に惑わされると、陰陽の理の中正を外れて、欲に落ちる。そうならないためには、心身各部の気のばらばらな乱れを理の性に収斂する「敬」に徹していなければならない。

「敬」は、具体的には『大学』に記された格物・致知・誠意・正心・修身・斉家・治国・平天下の八条目のステップで修養できる、とされる。ところが、格物については『大学』に説明が無い。最初に『大学』を取り上げた司馬光は、物を格子で隔絶する、つまり、物欲を抑えることとしたが、朱子は、物に当たる、実際の事物を探求することであるとした。こう解釈した朱子の根拠ははなはだ怪しいが、とにかくこれで中国に自然科学、社会科学が生まれた。(といっても、朱子の言う事物の探求は、二次的な古典文献を知ることで、実証的な経験主義まではまだ遠い。それでも、具体的な事物に関する知見は劇的に増大した。)

こうして八条目に努めるのは、『大学』の三綱領、明明徳・新民・止至善を実現するためである。明明徳とは、明徳を明らかにすること、格物・致知・誠意・正心・修身によって、明るい徳、理の性の模範を人々に示す。こうして、徳を斉家・治国・平天下と広げていくことによって、新民、民を新たにし、止至善、最上の善、つまり、理の状態を保ち続ける。『大学』の本文では「親民」なのだが、別の場所に「新民」というのがあるので、朱子はかってに、これは「新民」のまちがいなのだ、と決めつけた。もともと『大学』は王帝のために書かれたもので「親民」のままで正しかっただろうが、朱子のような名目職は自分の領民など持っていないので、話が合わず、気にくわなかったのだろう。

いずれにせよ、朱子は、本来は王帝のために書かれた『大学』を、強引に読み替えることによって、だれでも「敬」に徹すれば、気の性(現実の低位や貧窮)に振り回されず、天の理を体現する聖人になることができ、その徳によって周囲の民衆をも感化して、家を興し、国を取り、天下を治めることになる、と説いた。いや、朱子によれば、知のエリートは、現世の五気の性に惑わされている愚かな人々の、ばらばらな世の乱れを、天の陰陽の理に収斂させるための核として、この世にぜひとも必要なのだ。そして、彼はこの自分の考えを、当時、市場に流通し始めた木版印刷で大量に頒布した。

学べば誰でも聖人となって天下も取れる、などという、自己啓発の嚆矢のような朱子のアイディアは、市場経済で地位が相対的に低下して鬱屈としていた地方の士大夫たち、それどころか科挙にも受からず、経済発展にもかかわらず個人の中小の農家や商人としても芽が出ず、ただ無職貧乏にあえいでいるくせに天下取りの自信と野心だけは全身に煮えくりかえっている、劣等感と自尊心で屈折しまくった連中に爆発的に受け入れられた。しかし、我こそは天の理を体現する者なり、などという思い上がりの化け物みたいなのが、独善的に政治批判、社会批判をしまくるものだから、1195年の慶元党禁で偽学として禁止。それでも、現実の低位や貧窮をかってに無視して(朱子学は、そんな現実を無視するのが正しい、と言ってくれる)、学んだだけで聖人君子を気取れる朱子学の人気は衰えることはなかった。



第三章 世界はうまくいくようにできている:三分でわかる陽明学

/朱子学は、二程子から理気二元論を採ってくることによって、新法新学の一国斉民思想を退け、士大夫の必要性を説いた。しかし、理気二元論は、二程子の弟の程頤によって、体(無心)の中正、「敬」という話に矮小化されてしまっていた。陽明は、朱子の文献の中に二程子の兄の程顥の万物万民一体の「仁」という壮大な構想を再発見し、それこそが朱子晩年の真説と考えた。/


陽明学成立の遠因

王陽明(1472~1529)は、明代の最上位の高級官僚。家柄も良く、成績も抜群で、軍隊を率いる将軍としても天才的だった。その執務多忙の間にも学究研鑽を怠らず、朱子学の勉強に努めた。そんな彼が気づいたのは、朱子文献に通説とは違う一面があること。彼は、これを朱子が晩年に到達した最終的な真説として論じた。これが陽明学。つまり、陽明学は、王陽明の学説ではなく、朱子の学説の解釈。朱子学学。

とはいえ、その後、陽明が着目した朱子文献がかならずしも朱子晩年のものではないことが明らかとなり、主流派から排除され、朱子学とは別の陽明学と見なされるようになる。しかし、朱子晩年のものではないにせよ、朱子文献に主流派の解釈とは相容れない文言があるのは事実だ。この原因は、朱子(1130~1200)より前、旧法党、とくに二程子兄弟の齟齬に遡る。

最初は、王安石(1021~86)が『周礼』(しゅらい)の一国斉民思想に戻るべく、「新学」として『孟子』の性善説を取り入れ、「新法」として零細な商人や農民を扶け、中間の特権的な士大夫(地主商人官僚)を抑えようとしたことに始まる。これに対し、同時代の旧法洛党の司馬光(1019~86)は、『孟子』を否定し、『礼記』(らいき、礼に関する論文集)の中の『大学』を取り上げ、その序の、天賦の才は等しくはありえない、だから世間に秀でた者が庶民を治め教えるべきだ、との節を引いて、士大夫の必要性を説いた。しかし、『孟子』か、『大学』か、という古典同士の権威の争いでは、すれ違いで議論にならない。そこで、朱子は、『孟子』の言うように万民が等しく性善であるにしても、やはり『大学』の言うように人間には優劣があり、政治と社会を牽引する士大夫が必要である、と理論づけた。

ここにおいて、朱子が用いたのが、理気二元論だ。理として万民が性善であるとしても、気の乱れで民衆は理を外れている。これらを理に沿わせるべく、修養によって理に適うようになっている士大夫が必要である、という。この部分は、旧法党でも、司馬光ではなく、二程子、すなわち、程顥(ていこう、明道、1032~85)と程頤(ていい、伊川、1033~1107)の兄弟の思想から取ってきている。ただ、兄の程顥は53歳で亡くなり、弟の程頤が74歳まで生きて、その言葉を伝えた。ところが、兄の程顥と弟の程頤では、じつはまったく考え方が違っていたのだ。


弟程頤による兄程顥の歪曲伝承

兄の程顥は、洛陽出身、業績抜群ながら、中央の政争に懲りて、地方官として転々とすることに甘んじ、学問に生きた。彼は、自然を愛し、天理を学び、その中に「道」としての一体の気を直観的に感じ取り、庶民はもちろん世界の痛みや喜びを自分のものとする「仁」をめざした。ここにおいて、司馬光と違って、王安石が理想とした、性善説の仁を解く『孟子』を高く評価した。

一方、弟の程頤は、もともと科挙に失敗して官僚にすらなれなれず、在野に埋もれていた。にもかかわらず、厳格な修養によって、だれでも聖人君主になれる、との屈折した考えを抱き、古代儀礼に執着拘泥した。旧法洛党の司馬光は、この程頤を好み、自分の後継者として強引に新皇帝の側近に送り込んだものの、現実の政治状況を無視したまま、学識の信念のみに基づいて古式回帰を強硬に主張したために、1186年、中央から排除されることになる。

兄の程顥は鷹揚で、広く人望があり、学問においても天才的だった。しかし、85年に死去。おりしもちょうど中央政界から放逐されてしまった弟の程頤は、兄の学説を伝えることで門人を集めた。しかし、だれでも修養で聖人君主(ただの立派な君子ではなく実際の政権を執る天下人)になれる、という考えに固執する彼には、天下全体に神経(「仁」)を張り巡らし、万物万民と喜怒哀楽を共にする、などという兄の超人的な思想を受け入れることができなかった。そこで程頤は、『礼記』の中の『中庸』という論考から、体(無心)が天理に適う中正であればいい、という「敬」の話に矮小化してしまった。

朱子もまた、理想と現実の違いを理気二元論で説明するに当たって、二程子の思想を参考にし、とくに弟の程頤の中庸のアイディアを修養の中心においた。しかし、これには当時から、陸象山(1139~93)が疑問を呈し、二程子の兄の程顥と同様に、力動的な万物万民一体の「仁」を説いて、朱子の静止的な無心の中正、「敬」を批判している。


事上磨錬:善悪の良知を実行実現する

朱子はカント的だ。理気二元論は、いっさいの物質を含まない純粋な世界、「太虚」を想定し、その理に比して、現実は物質による乱れがある、とする。また、心についても、いまだなんの内容を含まない純粋な体を想定し、これが気で乱れていると、実際の用としての情が欲にゆがむ、としている。だから、実際の物事に接する前に、なんの内容をふくまない純粋な体の段階で、気が理に中正する「敬」に整えなければならない、と考えた。

これに対し、陽明はデカルト的だ。何の物質も無い純粋な世界など無い。なんの内容も含まない純粋な心など無い。無心なら心も無い。むしろ心は、つねに内容に付随して起きる。○○がうれしいとか、かなしいとか、○○が無かったら、うれしさ、かなしさの心もあるまい。心の無い心を中正にする「敬」など、意味が無い。

陽明は、朱子の文献の中に、程頤が中庸論では説明し切れなかった兄の程顥の壮大な万物万民一体の仁の思想を見つけてしまった。ここにおいては、程顥がなぜ旧法党であるにもかかわらず、司馬光と違って『孟子』を高く評価したのかも明らかになる。つまり、万民だけでなく、万物もまたすでに性善なのだ。つまり、物質の世界こそが、そのまま天理を体現しており、本来であれば、善なる世界になるようになっている。

人もまた、本来であれば、性善であるから、世界の喜びを喜びとし、世界の悲しみを悲しみとするようにできている。そして、自分が何をすべきかの答えは、外界の物に問うまでもなく、自分の自然な心の中にこそある。しかし、もしそうでないとすれば、心が理を外れてしまっている。それは外界の物に対する性善な人間の知覚と情感、「仁」が欠けているからだろう。だが、人間はむしろおうおうに善、つまり、自分のすべきことを知っていながら、行わないのではないか。そこにこそ大きな問題がある。良知を実行と合一させなければならない。

同様に、世界もまた性善であるから、本来であれば、理に沿って、すべてうまくいく。しかし、ときにそうでないことがあるとすれば、つまり、理に適っている心に沿わないことが起こるとすれば、それは、世界の方がなんらかの原因で理を外れてしまっている。それを知ることができた以上、善なる理の道に戻るように、それを正してやらなければならない。

朱子において『大学』の八条目の最初の「格物」は、物にいたる、物事の道理を知る、という意味だ、とされたが、陽明は、これを、物をただす、であるとした。また、朱子においては、まず格物、そして致知、さらに平天下にまで修養を広げていくと考えられていたが、陽明においては、もとより平天下以下すべてうまくいっているはず。そうでないとすれば、国をただし、家をただし、身をただし、そして、物をただす。つまり、良知を致す、善を実行することに尽きるとされる。

ここにおいて、知は、他人ごとのように冷めた物事の博覧知識ではなく、自分もまた当事者であるという善悪の倫理意識のことだ。三綱領についても、その善悪を知る良知こそが明徳であり、それを知っているだけでなく、それを明らかにする、実行する、ことが明明徳であるとされる。また、朱子がかってに書き換えた「新民」を原文通りの「親民」に戻し、これを万物万民一体の仁を持つべきことであると考え、止至善は、天地本来の性善の状態を保つこととした。


陽明学の分離

陽明は、この自分の考えを、あくまで朱子が晩年に到達した最終的な真説と考えていた。ところが、主流派は、この陽明の考えが、朱子を批判し、朱子と論争した陸象山に近いことにすぐに気づいた。また、陽明が挙げた論拠が、朱子の晩年の言葉ではないことも文献学的に明らかにされた。こうして、陽明の朱子学学は、異端とされることになった。

しかし、朱子の学説に沿わないとはいえ、朱子の方が凡庸な程頤の理屈っぽい解釈を介することで、その兄の程顥の天才的なアイディアを歪曲矮小化してしまっていることは、これまたもはや文献学的に明らかだった。また、朱子は、王安石と司馬光の新旧論争において、あくまで限定譲歩的に『孟子』の性善説を容認し、そのうえで『大学』や『中庸』を援用して、その万民性善説を現実において否定したが、朱子と孟子であれば、孟子の方が古い以上、孟子の万民性善説の方が優位でなければならない、というのが、古典権威主義的な中国の学問の原理原則だ。朱子ごときがなんと言っていようと、孟子の方が正しい、とする方が理に適っているとされた。

かくして、陽明の考えは、もはや正統な朱子学学であるなどと主張する必要がなかった。孟子や程顥、陸象山の系譜にあって、凡庸な程頤の歪曲を介する朱子学と並ぶ、いや、それ以上の正統な理解であると考える人々が出てきた。もちろん政府の科挙は、あくまで朱子学を公認したが、こうして朱子学を官学として広めれば広めるほど、朱子の学問的ないかがわしさも知られるところなり、朱子学を深く修める者であれば、むしろ陸象山や王陽明の思想の方に傾いた。

もとより朱子学は、地位も財富も無い在野の閑寂にありながら、みずからを磨いて求心力を付け、天下をもみずからの足下に納めんとする野心的な思想だ。一方、陽明学は、いきなり大政権の中枢の役を担わされて、どうやってこの好状況を維持していくか、腐心する守勢。いわば、創業者と世襲社長の違い。

また、朱子学は、気の乱れに右往左往してばかりいる愚民どもを蔑視し、腹の据わった士大夫こそがエリートとして政権を取るべきだ、と考えている。これに対し、陽明学は、もともと天下人であることが前提だが、天理を同じくする庶民のばらばらの言行にも同等に理を認め、これらすべてをうまく感じ取ることこそが天下人に求められる。朱子学は、欲は気の乱れだとしてすべて否定してしまうが、陽明学では、農民が豊作を望むように、商人が利得を求めるのは道理であり、そのそれぞれの欲に素直に従うことが天理だ、とされ、それらの欲の実現をそのまま我がことのように重んじ計らう仁が天下人には求められる。

さらにまた、陽明学は、世界は本来は善なる世界を維持する、という楽観的な天下性善説なので、世界は本来は善になっていくように神が創造した、というキリスト教の摂理説とも相性がよく、万民一体の仁はそのままその博愛の精神と重なり、致良知は、回心し霊として生きる、という話とつながった。同様に、このキリスト教の摂理説を踏襲しているレッセフェール(なすにまかせよ)の社会や経済の自由主義とも、陽明学は相性がよかった。くわえて、朱子学があくまで自分自身を中華とし、外野や庶民の現実を雑音として徹底的に排除することを旨として、近代化のきっかけを逃したのに対し、陽明学は、すべての事象を天理の一端として自分に取り込むことに努めたことによって、時代の変化の波をうまく受け入れることができた。

ただし、朱子学は、学べばだれでも天下取りの聖人君主になれる、とするのに対し、陽明学は、あくまでもともと天下人である者の、天下人としての心得、つまり帝王学であって、なんの政治的配慮の権限も無い、そこらの庶民が高名な政治家たちの顰みをまねて陽明学なんかやったところで、茶番になるだけ。くわえて、朱子学は八条目の階梯を順を追って修養していけばいいが、陽明学はいきなり、万物万民一体の仁を養う、などという、どう考えても天賦の才なしにはできないような超人的なことを要求する。

万物万民一体の仁もないくせに、基本の朱子学を侮って最初から陽明学なんかに心酔すると、自分の感情的な独善を天理とかってに誤解し、それに変に確信を持って強引に実現しようとする偏狭なテロリストになってしまう。陽明学は、生まれながらに天下人になるべく中庸中正の感覚を全身に叩き込まれてきた文字通りの本物のエリートのためのもの。そうでないなら、まずきちんと朱子学を学んで中庸中正の感覚を身につけてからにした方がいい。


by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka. 大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。最近の活動に 純丘先生の1分哲学vol.1 などがある。)


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