岩手に出でよ!21世紀の原敬
Japan In-depth / 2019年3月30日 18時51分
明治維新以降、姫路藩は冷遇された。1871年(明治4年)11月2日に出来た姫路県は、わずか1週間後の11月9日に飾磨県に改称され、1876年(明治9年)には兵庫県に吸収された。この結果、この地の中心は姫路から神戸に移った。
淡路島が兵庫県に編入された経緯も興味深い。きっかけは1870年(明治3年)に起こった徳島藩の内紛だ。庚午事変という。これは淡路島を治めていた徳島藩家老の稲田家と主君である蜂須賀家の内紛だ。
▲写真 淡路島 出典:Public Domain(Wikimedia Commons)
幕末、徳島藩は佐幕、稲田家は尊皇に与した。その後、徳島藩は方針転換するが、明治になると稲田家の発言力が強くなった。稲田家は蜂須賀家の陪臣でなく、士族になることを求めたが、蜂須賀家は認めなかった。この対応に我慢できない稲田家は独立を目指し、洲本を舞台に蜂須賀家と稲田家が衝突した。この騒動の処分で、淡路島は徳島藩から召し上げられ、兵庫県に編入された。
稲田家も処分された。家臣一同は北海道静内に移住を命じられ、開拓に従事する。過酷な生活は2005年に吉永小百合主演で映画化された『北の零年』で詳しく紹介されている。
合併県の統治は難しい。神戸港を抱える兵庫県の重要性を明治政府も認識していたのだろう。知事には有能な人物が送りこまれる。初代は伊藤博文、その後、紀州藩の陸奥宗光、薩摩藩の税所篤などが名を連ねる。戦前、兵庫県知事に任命されたのは27名だが、7名が長州藩、2名が薩摩藩出身だった。
▲写真 伊藤博文 出典:Public Domain (Wikimedia Commons)
話を戻そう。明治維新から150年が経つが、兵庫県民の多くは県に帰属意識を抱いていない。神戸や姫路、さらに淡路島という共同体意識はあっても兵庫県民という意識は薄い。
ところが、岩手は違った。これはその歴史に負うところが大きい。様々な苦労を共にし、一つのコミュニティーへと成長した。この間の経験がこの地域に独自の特色をもたらした。
幕末、この県には2つの藩が存在した。南部家が治める盛岡藩(1808年(文化5年)に南部藩から領国名を変更するが、本稿では盛岡藩で統一する)と田村家が治める一関藩だ。規模・実力には雲泥の差があった。
盛岡藩は伝統ある大藩だ。源頼朝の藤原氏追討に同行し、それ以来、この地を治めた。当初、石高は10万石だったが、1808年(文化5年)、蝦夷地警備の論功行賞として20万石に加増された。
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