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岩手に出でよ!21世紀の原敬

Japan In-depth / 2019年3月30日 18時51分

一方、一関藩は小さかった。衰退していた田村家を、江戸時代初期に伊達政宗の孫が復興させた3万石の藩で、伊達家の支藩だった。明治維新後、岩手県に編入されたが、その影響力は限られる。


幕末、盛岡藩は迷走する。第12代藩主南部利済は派手好きで、盛岡に遊郭を作り、巨大土木事業を繰り返したという。今に至るまで評判は悪い。



▲写真 盛岡藩第12代藩主南部利済の肖像 出典:Public Domain(Wikimedia Commons)


ただ、盛岡藩の混迷の原因はそれだけではない。前述した1808年の加増が、知行地の増加を伴わない表高の加増だったことが大きい。税収は増えなかったのに、約20万石の軍役を課された。そこに江戸時代後半の小氷期による冷害が起こった。


財政が悪化した盛岡藩は農民に重税を課した。農民の不満はたまり、各地で一揆が起きた。有名なのは三閉伊一揆だ。住民6万人中、1万6,000人が参加した。隣接する伊達藩に越訴し、三閉伊の農民を仙台領民として受け入れ、この地を直轄領か仙台領とすること、あるいは役人を減らし、減税することを要求した。さらに藩主利剛が退位し、前藩主で第13代藩主の南部利義が復帰することまでも求めた。



▲写真 田野畑村にある三閉伊一揆の像 出典:Ty19080914(Wikimedia Commons)


盛岡藩は利義の復帰以外を受け入れ、主導者を処分しなかった。幕府は院政を引いてきた元藩主の南部利済を江戸で謹慎とした。


幕末、南部家の上層部は何度も判断を誤った。リーダーとしての適性に問題があった。一方、三閉伊一揆に象徴されるように民衆は強かった。兵も同様だった。戊辰戦争では官軍についた秋田藩に攻め込み、各地で秋田藩を圧倒する。ただ、最終的な結果はご存知の通りだ。


戊辰戦争での敗北が盛岡の発展を阻害する。戦後には藩主利剛は東京謹慎、家老楢山佐渡は切腹、七万両の賠償を求められた。家督を継いだ利恭は、新政府が仙台藩から没収した白石13万石に転封となった。


その後、南部家臣団や領民は新政府に利恭の帰還を申し入れるが、70万両の支払を求められた。盛岡藩は財政破綻。1870年(明治3年)、翌年の廃藩置県の前に自ら廃藩を申し出る。


教育機関も衰退した。江戸時代、盛岡藩士の子弟が学んだのは、藩立武術道場の御稽古所(後の作人舘)だった。教育の中核は武術だったが、後に医学教育も採用した。


作人舘は戊辰戦争で2年間休校した後、再開されるが、1872年(明治5年)の学制頒布により廃校となった。この地に高等教育機関が再開されるのは、1879年(明治12年)の獣医学舎(現岩手県立盛岡農業高校)、1880年(明治13年)の公立岩手中学校(現岩手県立盛岡第一高等学校)まで待たねばならない。西国雄藩の地元では、藩校がそのまま高等教育機関に発展したのとは対照的だ。


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