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岩手に出でよ!21世紀の原敬

Japan In-depth / 2019年3月30日 18時51分

この伝統が秋田に伝わった。秋田鉱山専門学校の関係者は秋田中学、秋田工業の生徒にもラグビーを教えた。1925年(大正14年)には県大会が開催されている。旧制秋田中学と秋田工業が鎬を削った。その後、秋田工業ラグビー部は日本を代表する存在へと成長する。全国高校ラグビー大会の優勝回数は秋田工業が15回でトップだ。最後の優勝は1987年(昭和62年)で、決勝戦は相模台工業を9-4で下した。



▲明徳館絵図 出典:Public Domain(Wikimedia Commons)


鹿角の鉱物資源に目をつけた明治政府は盛岡ではなく、秋田に投資した。これがこの地域の民度を向上させた。秋田藩の藩校明徳館の伝統は秋田高校に引き継がれ、現在も東北屈指の進学校だ。2018年の東大合格者は13人。全国40位で、東北地方では仙台二高(18人、29位)についで2位だ。佐々木毅元東大総長をはじめ、卒業生は活躍している。今年、東大病院長に就任した瀬戸泰之・胃食道外科教授も同校OBだ。


明治の日本で盛岡藩出身者は、官に頼ることなく独自に人材を育成せざるを得なかった。筆者が注目するのは原敬と東條英教だ。いずれも作人舘で学んだ。この二人の生き方は盛岡人を考える上で興味深い。



▲写真 内閣総理大臣時の原敬 出典:Public Domain(Wikimedia Commons)


まずは原だ。平民宰相として有名だが、祖父が盛岡藩の家老職に就くほどの名門の出だ。20歳のときに分家して戸主となり、平民となった。当時、戸主には徴兵の義務がなく、兵役回避を狙ったものとされている。


原は作人舘で学んだ後に上京するが、若い頃は苦労の連続だった。南部家が盛岡藩出身者のために設立した共慣義塾に入学するが、学費が払えず退学する。郷里の先輩のつてで、1879年(明治12年)に郵便報知新聞社に入社したが、明治14年の政変で大隈重信一派が入ってくると、そりが合わず退社する。御用新聞とされた大東日報の主筆となるが、経営不振で退社する。ただ、このときに政府関係者と知己を得て外務省に奉職する。


幸運だったのは陸奥宗光が支援してくれたことだ。1892年(明治25年)、第2次伊藤内閣で陸奥が外務大臣に就任すると、通商局長に抜擢される。その後、大隈が外務大臣になると、原は見切りをつけ、外務省を辞めるが、1900年(明治33年)に伊藤が立憲憲政会を組織すると幹事長となる。詳細は省くが、その後1918年(大正7年)には首相に就任する。衆議院に議席を持つ政党の党首という資格で首相に任命され、閣僚は陸軍・海軍・外務大臣以外はすべて政友会員だった。わが国初の政党内閣だ。


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