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岩手に出でよ!21世紀の原敬

Japan In-depth / 2019年3月30日 18時51分


▲写真 岩手県立盛岡第一高等学校(旧公立岩手中学校)出典:Public Domain(Wikimedia Commons)


地域力は人材力だ。地域力を高めるには教育の向上が欠かせない。戊辰戦争に敗れ、高等教育機関が閉鎖された影響は現在も残る。


例えば、中国・四国・九州には全ての県に国立大学医学部が存在するのに、東北地方では福島と岩手に存在しない。このような県は他に和歌山、奈良、神奈川、埼玉、栃木だけだ。いずれも幕末に佐幕か天領だった地域だ。


問題は医学部だけでない。東北地方は三陸沖の好漁場を有するのに、国立大学の水産学部が存在しない。類似の学部は、岩手大学に農学部食料生産環境学科があるだけだ。九州では鹿児島大学と長崎大学に水産学部が存在する。


秋田県の辿った歴史は岩手県とは対照的だった。戊辰戦争の秋田戦争で東北屈指の精鋭だった盛岡藩と庄内藩を引きつけたことで、維新後に厚遇される。


盛岡藩と秋田藩の境に鹿角地方というところがある。教育レベルの高い地域で、多くの人材が出ている。戦前、わが国を代表する東洋学者だった内藤湖南や狩野亨吉(第一高等学校校長、京都帝国大学初代文化大学長)などがその代表だ。



▲写真 内藤湖南 出典:Public Domain(Wikimedia Commons)


江戸時代まで、この地を治めたのは南部家だった。内藤湖南の生家は、盛岡藩から派遣された城代の桜井家に仕えた。湖南の湖は、琵琶湖でなく、十和田湖に由来する。


鹿角地方には尾去沢、小坂という鉱山があった。尾去沢は別子と並ぶ我が国屈指の銅山で、岩崎家および三菱合資が経営し、1978年(昭和53年)に閉山した。小坂は銀鉱山として有名で、1869年(明治2年)に盛岡藩から官営になり、1884年(明治17年)に藤田組(現DOWAホールディングス)に払い下げられた。1901年(明治34年)には銀の生産高が日本一となり、1990年(平成2年)まで採掘が続いた。


戊辰戦争後、鹿角地方は秋田県に編入された。鹿角の士族は一時的に百姓となった。明治政府は鉱山開発に力を注いだ。1910年(明治43年)には秋田鉱山専門学校を設立した。日本唯一の官立鉱山専門学校で、秋田県内初の高等教育機関だ。秋田大学の前身である。


秋田鉱山専門学校は、ドイツのフライブルク大学を模範とし、京都帝大から教授を招いた。彼らが伝えたのがラグビーだ。戦前まで日本のラグビーを牽引したのは京都勢だった。全国高校選手権では、1930年(昭和5年)の第12回大会で慶應義塾普通部が優勝するまで、同志社中学など京都勢が11連覇した。


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