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「石原慎太郎さんとの私的な思い出 3」 続:身捨つるほどの祖国はありや 16

Japan In-depth / 2022年4月12日 13時12分

私が受験を意識し始めたのは、広島に移ってからのことだった。東京では友だちとの野球に興じていた子どもが、引っ越しを境に塾に通い始める。目的は一つ。東大に合格する生徒の数の多い中高一貫の学校に入ることである。


祖国は?


私について、中学校1年生、12歳から33歳までの歴史意識を調べ、博士論文に仕上げた方がいる。藤井千之助という名の、私の中学高校での社会科と歴史の先生である。後に広島大学の教授になられた。その先生が出された『歴史意識の理論的・実証的研究』という本(風間書房 昭和60年刊)に、私とわかる少年が青年になる過程でどんな考えを抱き、変化していったのかが記録されているのだ。


驚くべき偶然ではある。私は藤井千之助先生がそんな大それた野心的な計画のもとに調査をしているのだとは思いもしなかったのである。


中学を通じて、私は「社会科の成績が特に優秀であった」そうだが、国家については中学1年生のときから否定的だった。(237頁)おそらく家では朝日新聞を読み、非武装中立論者であった父親と話すことが多かったからだろう。


つまり、少年だった私は祖国について誇りをこめたアイデンティティを持つことはなかったのである。1949年に生まれた少年は、1932年に生まれた少年と異なり、1935年に生まれた少年たちと同じく否定的な国家感を抱くようになっていたのだろう。たぶん、団塊の世代の多くに共通していると感じている。


ちなみに、高校時代に私は加藤周一の『羊の歌』が、「直接にではなく、間接的にであるとは思われるが、重要な影響を与えていると思う。」と記してもいる。(306頁)大江健三郎についても肯定的な評価をしている。


私は、後年、社会にでて仕事をするようになって、自力で加藤周一的世界を克服したのだ。


石原さんが書いていたことで、国家との関係で強く印象に残ってることがある。


沖縄の老人と話したことについて、石原さんが書いているのだ。


その老人の子どもは、青年のときにアメリカ兵に射殺されて死んだ。アメリカ兵に暴行されそうになった女性との間に入り、そのアメリカ兵に銃で胸板を撃ち抜かれて殺されたのだという。


父親は、しかし、石原さんに、あの子は男が当然すべきことをして死んだのだ、私はあの子を誇りに思っている、と述べたという。石原さんは必ずしも釈然とはしない。しないが、父親のその気持ちの真っ当さを正面から受け止めている。男はそのように生き、死ぬべきものなのだ、と。


 


トップ写真)C40 大都市気候サミットソウル2009で首相として登壇する石原慎太郎氏 (当時)


出典) Photo by Chung Sung-Jun/Getty Images  2009/05/19 


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