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「石原慎太郎さんとの私的な思い出5」 続:身捨つるほどの祖国はありや 18

Japan In-depth / 2022年6月14日 12時0分

それにしても、ああやって石原さんに電話をいただいて伊藤整の小説について話をしたのは、私が54歳のときだったのだ。


つまり、石原さんは71歳だったことになる!


岩井透青、実は伊藤整の名を作者が変形してまぎれこませた副主人公の年齢に石原さんがあったとは。


石原さんが、性的に「お前はまだ役に立ちそうだが」と54歳の私を羨ましく思ったはずはない。長い間にわたって石原さんの最も身近にいた見城さんによれば、彼は80歳を超えてなお性的な生活を大いにエンジョイしていたという。さもありなん、である。


石原さんにとって、伊藤整は特別な存在である。


石原さん自身が書いているが、石原さんは一橋大学に入ってどうしても学部の講義になじむことができなかった。他方、当時廃刊になっていた「一橋文藝」という同人誌を友人だった西村潔氏と復刊すべく、当時流行作家だった伊藤整氏のところに2度にわたって金の無心に行って、その復刊第一号の「一橋文芸」に書いた『灰色の教室』が、文学界誌の同人誌評をやっていた浅見淵氏の目に留まり、数行のコメントが印刷された。石原さんの人生に運命の女神が微笑みかけた、いや、強く抱きしめた瞬間である。


その直後、『太陽の季節』で芥川賞を取ってスターになったことは周知のところだが、そのころ、石原さんは自分の身の置きどころについて伊藤整に相談している。


「なにがなんだか、急に人気者になってしまって、あちらこちらから声がかかってくる。こんなときにどうしたら良いのでしょうか?嬉しいような、怖いような」と石原さんが教えを請ったら、伊藤整は、


「いい機会なんだから、飛んだり跳ねたり、好きに暴れまわったらいい。それで失敗したら、そのことを、また小説にかけばいいのだから。小説家というのはそういう職業なんだから」と助言した。


なるほど、と納得した石原さんのその後は、往くところ可ならざるはなし、といったところだろう。日生劇場を同時の金で45億円もかけて作るのを、五島昇氏の仲立ちで日本生命の弘世現社長に頼まれたのは、なんと30歳のときである。


村野藤吾の設計の日比谷にある建物は、私も日本生命の仕事でなんども出入りしたことがある。ほんの少しの修理にも設計者の承認が要るという、とんでもない建物だと間接に聞いたこともある。


私にとっては、その日比谷にあるビルで、弁護士と依頼者として、一対一で交わした宇野郁夫社長との対話は忘れがたい人生の宝物である。


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