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「石原さんとの私的思い出7」続:身捨つるほどの祖国はありや22

Japan In-depth / 2022年9月21日 21時0分

なんだ、である。それならそうと、初めっから言ってくれればいいのに、と私はダブルベッドの話を慌てて引っ込めた。


後で聞けば、K教授は、「いったいあの人はなに者なんですか」とM医師にたずねたらしい。ただの一介の弁護士が、天下の慶応大学病院長教授にとんでもないご迷惑をかけてしまった。なんともお粗末な一幕であった。


その、何者なんですかと問われてもなんとも答えようもないただの弁護士の入院している部屋を、東京都知事がじきじきに見舞った、ということになってしまったのだ。


愚かな頼みをした弁護士が「なに者」からしいことが、直ぐに慶応病院中に知れ渡ってしまったに違いない。なにしろ、なんと都知事の石原慎太郎さんがその弁護士である患者をわざわざ自ら見舞いに訪れてくれたのだ。


私が手術を終わり、まだ尿道にカテーテルをさしこんだままの状態だった。経験のある方ならすぐにわかるだろう。例の、尿意の大いにあるような、しかし出るものは一滴もない状態で苦しんでいたときだった。私は、まだ麻酔の効果でか、心身ともぼーっとしているところだった。石原さんが病気見舞いに来てくださったことに大いに恐縮しつつも、なんだか現実感のないやりとりしかできなかった。


たぶん、石原さんは「気分はいかがですか」といった類のことをいわれたのだろう。いつも丁寧な方だから、そういうふうに話しかけられたにちがいない。しかし、さすがに私は覚えていない。


その前に、いっしょにみえた見城さんから電話を貰っていたのだろうが、手術の前ではなかった。当日だったのだろう。


ただ、石原さんが見城さんに、「まだ大変そうだから、長居をしないほうがよさそうだね」という趣旨のことを言われたような気がする。石原さんらしい配慮だ。とても繊細で細やかな方なのだ。見城さんも「そうですね」といったことだっただろう。


私は茫然として迎え、茫然としたまま見送った。その間15分だろうか30分だろうか。私には、「ベッドに横になったままで失礼します」とお礼を申し上げるのが精いっぱいだった。


今になって考える。


石原さんにとってあそこは特別の場所、特別のフロアだった。1987年7月17日、弟の裕次郎さんが亡くなった慶応病院の特別病棟の同じフロアの病室。そこは私の病室のすぐ近くだったのだ。石原さんにとって18年前に、人生の決定的な重大事のあったところだった。


石原さんは、慶応病院までの車のなか、車を降りて病院の玄関を歩きながら、エレベータの扉の開くのを待つ間、エレベータがゆっくりと上昇する時間、そして18年前に来たのと同じフロアに着いたドアの開くゆっくりとした動き。そのドアの開き切るのをまたずに、長い廊下を歩いて私の病室に着くまでの時間の流れ。一体、どんな思いが石原さんの胸に、脳裏に浮かんだことか。


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