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「石原さんとの私的思い出10(完)」続:身捨つるほどの祖国はありや26

Japan In-depth / 2023年1月11日 23時6分

石原さんは、確かに、「歴史を越えようとするもの」と掴み切れないものを掴もうとでもするように、そう表現した。


2006年10月31日の電話では、坂本忠雄さんのお名前が出ている。


11月2日には、石原さんに言われてだろう、私の『逆転』と『社外取締役』をそれぞれ2冊、田園調布のご自宅にお届けしている。ショートショートと自信作をというお話だった。それでこの2冊を選んだのだ。「それを読んで、アドバイスをするから、私はきっとあなたの役に立つよ」と言われた。


10月31日の電話での話は、ほとんどが小説のなかに出て来るゴルフ場の売買を巡ってのものだった。







▲写真 『火の島』 出典:幻冬舎


「ゲラを見せていただいた方が早いですよ」と申し上げたのは、この時の電話のようだ。


11月6日に石原事務所の方から電話があって、これから書類を届けるとのことだった。


それが、『火の島』のゲラである。だから10月31日にゲラの話をしたのだと思うのだ。


私なりにご説明はしても、石原さんが奔放な構想のなかでどう捉えているの、気にならないではいられなかった。


2日後、11月8日に、私は、ゲラの空欄に「セブン・オーシャンズ・チェーン」と名づけられたホールディング会社の組織図と株の所有関係を明示する図を書き入れて返送した。


その部分を巡っての電話でのやり取りがあったのが同じ11月の15日のことだった。英造と西脇の息詰まるやりとりの詳細を議論した。一つ一つの取引構造の話をするたびに、石原さんが「はい。はい。」と、まるで青年のように返事をしていたのを覚えている。


十分に理解が行かなかったのか、「またお電話していいですか」と重ねて訊かれたのが印象に残っている。しかし、電話はなかった。


2007年の4月25日には、都知事の三期目を務めることになった旨の挨拶状をいただいた。


同じ年の9月29日にまた電話をいただいて、「供述調書の文体をつかってみてはどうか」と再びアドバイスいただいた。たぶん、なかなか私が作品を書かないことに苛々されていたのだろう。それでも、そんな口ぶりはまったくなく、私の意欲を引き出そうという調子だった。


その直後が、10月4日の『菊川』での会食になる。驚いたことに、10月2日13時5分に自ら電話をくださって、場所などを教えてくださったもののようだ。私は電話をとることができなかった。いれば、お話しすることができたに違いない。


2008年9月26日には、『痛ましき十代 石原慎太郎十代代表作展 レセプション』のご案内をいただいた。


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