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平成15年の年賀状「宮島、パリ、青山と私」・「広島へのセンチメンタル・ジャーニーと青年弁護士のボルネオ島への旅のことなど」

Japan In-depth / 2023年6月16日 11時0分

どうやら誰もが、人によって程度の差はあっても、「真の生」は、現実に目の前にあり自分を取り囲んでいる、自分なりにつかみ取り発展させた人生でなく、信じられないほど素晴らしいなにかがどこかにあるはずだと感じながら生きているもののようだ。したがって、他人には洩らさないにして、大なり小なり自分は贋ものだと感じながら生きているのだろう。


いずれにしても、誰もが確実に死ぬ。太陽のように生きた石原さんも亡くなった。トルストイの書いた小説「イワンイリーイチの生涯」の主人公である裁判官のイワン・イリーイチも、生き、悩み、死んだ。誰もが死ぬに決まっている人生を生き、あげくに死ぬのだ。赤く黒く塗られている顔のまま死ぬことになる。


それにしても、「彼がそれ(『変容』)を書いた昭和43年」は1968年であって、55年も以前のことである。「そんな東京」とは、たとえば本郷三丁目から都電に乗って丸善のある八重洲まで乗り換えなして行くことのできた東京である。それは芥川龍之介が『或阿呆の一生』のなかで書いているとおり、西洋式梯子に登ったまま、店員や客を見下ろして「人生は一行のボオドレエルにも若かない」と呟いた丸善のあった東京から数えて、たった41年後の東京に過ぎない。芥川がそう傲然と言い放ってから、もっともっとたくさんの時間が経ってしまっているのである。


「ひょんなことから新聞に小説を書かせて戴くことになりました。」というのは、産経新聞の宝田茂樹記者のおかげだということも『我が師 石原慎太郎』に書いた。それが石原さんの目に留まった結果の芥川賞の話だったことについてもそこに書いた。


「秋、パリを歩きました。」とある。外国の都市で一番訪ねた回数が多いのは、ニューヨークだろうかロサンゼルスだろうか。それともロンドン、シンガポール、あるいはパリということになるのか。ほとんどが仕事での訪問である。私の師匠であるラビノウィッツ弁護士は「自分は世界中とこへでも行く、それが仕事である限りは」と言っていた。見習ったというわけではないのだが、仕事以外で海外に行くにはあまりに仕事で行くことが多過ぎたのだろう。


シンガポールには、検事を辞めてアンダーソン・毛利・ラビノウィッツ法律事務所の弁護士になって数か月後の夏に行ったのが初めてだった。1979年のことである。それから何回行ったことか。一度を除いて、すべて三井物産を訴えた中国系マレーシア人である実業家の事件のためだった。東京地方裁判所に係属した事件で、彼の代理人になったのだ。訴状を提出したのでシンガポールのメディアを呼んで広報したいと依頼者が言うので、そのシンガポールにあるビジネス拠点に出かけたのだった。私はまだ29歳だった。学生時間に使って以来もう期限切れになっていたパスポートを取るために事務所のパラリーガルだったF嬢が大活躍してくれたことも覚えている。


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