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平成15年の年賀状「宮島、パリ、青山と私」・「広島へのセンチメンタル・ジャーニーと青年弁護士のボルネオ島への旅のことなど」

Japan In-depth / 2023年6月16日 11時0分

出版されなければならないのは、手元の原稿である間はいかようにでも書き換えることができるから、それは未だ決して客観的な存在にはなっていない、ということを経験的によくわかっているからに違いない。本として世間に出れば、店頭に並べば、もう自分の手を離れてしまっている。自分の頭のなかにあっただけの回想が、歴史的事実として存在するにいたってしまって、もう自分でも自由にはできない物と化していると感じられるということなのだ。


伊藤整の『変容』を読み返したのは、石原さんとその小説の話をしたからだった。


私は伊藤整の小説、殊に『変容』は昔から好きだった。伊藤整との縁は『氾濫』という、彼の晩年の三部作の最初の長編が映画になったものをテレビで観て以来で、それが大学生の時のことだった。映画そのものは1959年のものである。


三部作の最後が『変容』なのだが、それを私は愛読していた。60歳の画家の恋愛を通じての一種の老人論である。


しかし、実は最近になってから、私は真ん中の『発掘』がもっとも気になっている。伊藤整が加筆修正を望みながらも叶わなかった長編である。癌のためにやりとげることができなかったのである。死後に単行本として出版されている。しかし、作者にとっては未完なのである。


この『発掘』に書かれている伊藤整の自画像が気になってならない。一応の世間的成功を遂げた主人公、自らの分身について、「自分が『贋もの』だという意識に取りつかれている」と描いている。伊藤整は世間的に大成功した自分への評価として、「贋もの」という言葉を選んだのである。私は、私なりに彼のその気持ちがとてもよくわかる気がしているのだ。いや、まちがいなく、世間の多くの人々にとっての苦い真実ではないかとすら感じている。


たとえば、鷗外も『妄想』のなかで、「生まれてから今日まで、自分はなにをしているか。始終何物かに策(むち)打たれ駆られているように学問ということに齷齪(あくせく)している。これは自分に或る働きが出来るように、自分を為上げるのだと思っている。その目的は幾分か達せられるかも知れない。併し、自分のしている事は、役者が舞台へ出て或る役を勤めているに過ぎないように感ぜられる。その勤めている役の背後(うしろ)に、別に何者かが存在していなくてはならないように感ぜられる。策打たれ駆られているばかりいる為に、その何物かが醒覚する暇がないように感ぜられる。勉強する子供から、勉強する学校生と、勉強する官吏、勉強する留学生というのが、みなその役である。赤く黒く塗られている顔をいつか洗って、一寸舞台から降りて、静かに自分というものを考えて見たい、背後にある或る物が真の生ではあるまいかと思われる。併しその或る物は目を醒まそう醒まそうと思いながら、又してはうとうととして眠ってしまう。」と書いている。


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