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平成15年の年賀状「宮島、パリ、青山と私」・「広島へのセンチメンタル・ジャーニーと青年弁護士のボルネオ島への旅のことなど」

Japan In-depth / 2023年6月16日 11時0分

今は10倍をはるかに超えるスペースを使っている。現在の山王パークタワーも同じ大家さんである。青山のビルで拡張を重ねかさねさらに拡張を望む私に、「いっそ山王パ―クタワーに移転したら如何ですか?」と親切にも勧めてくれたのだ。私はそのビル会社に大変に恩義を感じ続けている。


巨大な不動産会社で、株式会社という上場した法人なのに恩義はおかしい?


違う。どんな巨大組織でも、個人が支えているのだ。私はそう思っている。私にそう教えてくれたのもその巨大不動産会社の担当の一人一人の個人なのだ。あの人、あの方にのそれぞれに私は今でも深く感謝している。


写真:マレーシア サワラク州クチンの眺め 2017年11月6日


出典:Photo by Chris Jackson/Getty Images


 


『広島へのセンチメンタル・ジャーニーと青年弁護士のボルネオ島への旅のことなど』


【まとめ】


・石原慎太郎さんは、私に芥川賞をやりたい、だから、150枚の小説を書くのを「一年待つ」、と言ってくれた。


・私は伊藤整の小説、『変容』は昔から好きだった。60歳の画家の恋愛を通じての一種の老人論である。


・弁護士として国内外で活躍していたら、いつの間にか35歳になっていた。


 


「一年待つ」と言ったのは石原慎太郎さんだ。私に芥川賞をやりたい、だから、150枚の小説を書くのを「一年待つ」、と言ってくれたのだ。私は舞い上がる思いだった。その間のことについては、石原さんについての私的思いでとして、『我が師 石原慎太郎』という本に書いた。幻冬舎から出版されたばかりの本だ。


「本が出版されるまでは、作家が主題から最終的に開放されることはない」とサマセット・モームは言っている(『要約すると』225頁 岩波文庫)。


さらに「作品が世に問われて初めて、たとえ読者に歓迎されなかったとしても、著者は自分を苦しめていた重荷から解放されるもの」だとも彼は書いている。どうして「たとえ読者に歓迎されなかったとしても」と挿入したのか不思議だが、たぶん、彼の名作『人間の絆』が世に問われたのが「第一次世界大戦の最中(さなか)であって、誰もが自分の苦しみに終われていたから、小説の主人公の体験などに注意を払う余裕がなかった」(同書226頁)と弁解するためなのだろう。


出版が必要な手順であるのは、過去を自分流に回想して捉えなおした文章が、いま目のまえに本という客観的な物質として存在としているという動かしようのない事実が、著者自身に、自分の頭のなかから勝手にひねり出したに過ぎない文章が、もはや動かすことのできない実在として世の中に存在していると納得させ諦めさせるための仕掛けだということなのだろう。


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