平成29年の年賀状
Japan In-depth / 2024年2月16日 21時4分
モームにくらべれば、鷗外は早く亡くなったぶん、そうとうに幸福な人生を送ったということになるのだろうか。
江戸初期の武人で詩人であった石川丈山の造った詩仙堂を舞台にした『詩仙堂志』という中編がある。そのなかで加藤周一は、現代を生きている自分が詩仙堂で出逢った老人と丈山についてやりとりをしながら、
「老人の語るにつれて、私はほとんど詩仙堂に四季の移るのをみたように思った。雪の降ふりしきる夜、炉にくべた木の枝の燻り、釜の湯のたぎる音、春先の生暖かい風の肌ざわりや泉水に散る陽光のまぶしさ、夏の雲のあわただしい動きと、夕立の初めの埃の臭い、――しかし殊にその林と水と石の上に来たりまた去る季節を私自身がみてきたかのように想像した。そういう具合に庭ができあがっていたというべきか、それとも詩仙堂の日常を語る老人のことばに魅せられたというべきか。
「しかしそのすべてがその場かぎりで、消えて、二度とかえらないものだった」と私はため息とともに呟いた。
「人の命がその場かぎりのものさ」と老人はいった。
「しかし石川丈山は庭をつくった。その庭は今でもここにある。」
・・・
「たしかに今も庭がある」と老人はいった、「ということも、今では丈山となんの関係もない。丈山はもういない。」
・・・
丈山はみずから思うところに従って生きた。その丈山は死して後、どうなったか。
「人は死んで天地に還る」と老人は事もなげにいった。(『三題噺』筑摩書房1965年刊所収の『詩仙堂志』1964年雑誌『展望』初出)
そういうことなのだろう。
加藤周一はあとがきのなかで、石川丈山についての中編を「日常生活の些事に徹底した男の話である。」と記している。
なるほどと思って長い間わたしは過ごして来た。しかし、鷲巣力氏の『加藤周一はいかにして「加藤周一」となったのか』(岩波書店2018年刊)の第5章『羊の歌に書かれなかったこと』を一読して仰天した。
加藤氏はフランスへ行く前に結婚していて、イタリアで知り合ったオーストリア人の女性と結婚の約束をしていながら、日本に帰国し、妻の守る西片町の自分の家に戻って以前のとおり暮らし始めたのである。そこへオーストリア人の女性が訪ねてき、「私たちの結婚の約束を履行してください」と宣言したからなのである。加藤周一が上野毛に住むことになった。離婚調停は数年かかったという。それはそうであろう。
つまり、半生を語った自伝であるかに思われる『羊の歌』は、肝心のところでとんでもない虚構に貫かれているのである。
しかし、加藤周一ももういない。
そうなのだ。誰もかれも死に、死ねばなにもかも消えてなくなるのが人の世なのだ。
石原慎太郎さんが『「私」という男の生涯』に書き遺したとおりだ。
それでも、天国ではなく、この世で、見城徹さんが律儀にも石原さんとの約束を果たして発行した。その文章が、生きている人間の心を乱す。
なに、いくら乱されたところで、私もそのうちいなくなる。虚無に戻る。誰も同じこと。
問題は、未だ生きているということなのだろう。そう思っている。
トップ写真:イメージ(本文とは関係ありません)出典:Stefania Pelfini, La Waziya Photography /Getty Images
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