「令和2年の年賀状」団塊の世代の物語(4)
Japan In-depth / 2024年5月16日 21時0分
私はこう答えた。「それどころじゃないですよ。未だ20年は生きなくっちゃいけないんです。医学の進歩はそういうことを常識にしつつあるのですから。」
「僅かの時間にも本を読み続けます。」
そうかね。しかし、そいつは酒を飲み続けることや賭け事に熱中して人生を費やすのと同じで、趣味の問題に過ぎないのじゃないか、と思い始めている。本を読むことが、飲酒や賭け事にくらべて高級なことという思い込みがあったのだ。実はそうではないのだ、とやっと分かり始めた。
想像もしなかったことである。5歳までに私は自分なりの行動のルールを身に付けてしまい、以来すこしも変わらないで来た。
少年老いやすく学なりがたし、一瞬の光陰軽んずべからず。などという高い調子の朱熹の教訓に従ったのではない。幼いころから、人とはそのように生きるものだと世間によってこの心に植えつけられたのである。昭和24年、1949年生まれの人間、団塊の世代の人間は、人生とはそのように生きていくものだとしか社会に教えられなかったのだという気がする。
もっとも、高校から浪人時代にかけて友人だった男は、「わしゃあガンバルゆうのんが嫌いなんじゃ」と広島弁で口癖のように言っていた。高校生のころからタバコを吸っていたあの男は、60代の早いころに肺癌で死んでしまった。私に芥川龍之介の『黄雀風』という新潮文庫の本をくれたことがあった。芥川が死の3年前に出した本だ。
過去への後悔?過去が取り戻せないことへの怒り?
そんなものはない。
ただ、年月が経つにつれ知らないままに、縁のないままに、愉しむことのなかった世界がこの世にはたくさんあるのだろうと、漠然とした羨ましさを感ずることがないわけではないということである。
しかし、自分はこれでやっていくしかなかったろうし、それはそれでいいという諦めに似た思いはある。鷗外はそれを「レジグネーション」と呼んだ。それを覚悟と呼ぶと、すこし人情に反する気がして座り心地が悪い。
未だ、先にいろいろなことがあると愉しみにしているのだろう。
団塊の世代の物語(4)
英子はホテルオークラにあるヌーベル・エポックという名のフランス料理店を指定した。
エントランスに大木が近づくとなん人もの男女が深々と頭を下げてお辞儀をしてくる。どうやら大木は顔をおぼえられているようだった。
以前はベルエポックと呼ばれていた。未だその名だったころのこと、1998年、大木がフランスの大富豪を代理して日本の生命保険会社を買収したとき、その売り手側である生命保険協会の会長であった第一生命のトップが歓迎の夕食会をベルエポックで開いてくれたことがある。たくさんの人がいたが、そのなかで主賓のフランソワ・ピノーという名の依頼者が来ていた水色のワイシャツがなんとも素敵だった。
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