「令和3年の年賀状」団塊の世代の物語(5)
Japan In-depth / 2024年6月12日 19時0分
50年後のいま、三津野は独りで50坪を超える南青山の広いマンションの最上階で暮らしている。妻が亡くなったとき、それまでの等々力の一戸建てから引っ越したのだ。とても妻と暮らしていた家には住み続けることができなかった。ホテルもためしてみたが、都心のホテルは到底人が定住するという感覚をもつことはできないところだ。
それでも、週の半分はホテルに泊まる。洗濯をしないで済む。会社の経費で落とせるときには毎日ホテルの部屋を使っていた。それがかなわなくなっても、その程度の資産なら三津野は個人で持っていた。不動産会社のトップを長い間やっていれば、周りが放っておかないものなのだ。建設業者をはじめとした取引先がなにかに理窟をつけてお金を押しつける。それは三津野の流儀ではなかった。しかし、三津野が片意地をはれば、そうした餌をたのしみにしている同僚が恨めしい目で三津野を見ることになる。幹部従業員協同組合の代表として東証1部上場会社たる滝野川不動産のトップになったのだ。三津野には行動の自由は意外なほど狭かった。会社は自分のものではなく、組合のものなのだ。
最近では株主の意見も重要になっているらしい。しかし、滝野川不動産は旧滝野川財閥グループを支える三つのリーディングカンパニーの一つなのだ。政策保有と称してグループ内で持ち合っていれば、外の株主がつけいる隙などありはしない。すくなくとも三津野が経営していた時代はそれでよかった。
ヌーベル・エポックの個室から、英子の熱い沈黙の視線を感じながら三津野に電話した。
コールしているスマホを英子の手前、真っ白なテーブル・クロスの上において、20回のコールを確認して
「明日だね。たぶん返事が返ってくる。そしたらすぐに連絡します」
そう軽快に英子に説明すると、英子は目を閉じたまま素直にうなずいた。
62年まえ、大木の自宅で水色のカーディガンの裾を指先で下に強く引っぱった英子がそこにいた。手の甲の太く浮き出た血管、首の周りの皺。どれも、昔のなにかとその場でくらべるわけもなかった。
眼の前にいるのは、花の女王だ。62年まえに大木の上幟町の自宅の玄関にいて、二つの乳房の膨らみを隠さなかった英子という名の花の女王だった。
本当は、三津野とは万一のための電話番号をべつに交換しているのだが、それは使わなかった。英子ともっとかかわっていたいということかなと大木は自らを嗤った。
三津野からは朝8時半に電話が返ってきた。
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