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「令和3年の年賀状」団塊の世代の物語(5)

Japan In-depth / 2024年6月12日 19時0分

この、私のはその時その時の他人を訪ねる旅ではない。





むかしの自分に再び巡り合って、懐かしい驚きを繰り返すという思いつきで始めたことだった。





それが、こうして旅の終わりが近づいてくると、なにやら嘆きのようなものが目立ってきて、我ながらお粗末な気がし始めている。まだ何回か残っている旅だが、どうなることやら。





だが、それでも多少とも意味があると考えているのは、私は私が独りではないという確信があるからだ。たった1票に過ぎないにもかかわらず、投票に行くのと同じことだ。私がいれる1票は、他の人がいれる1票と足されて、候補者の当落を決める。私たちは、すくなくとも投票で権力の所在を決めるシステムの社会では、そのように考えて投票所へ赴く。





私が生きてきたのと同じ時間を生きてきて、まだ生き続けていこうとしているたくさんの人々の存在を感じる。その人々にとって、私の例は、たった一つではあっても、無意味であろうはずがない。正反対のことを考え、あるいはまったく無縁のことをしてきたとしても、同じ時間、同じ日本、同じ世界で生きて来たことだけは間違いないからである。ああ、こいつはこんな風に考えていたのか、わかるわかる、または、違うものだなあ。どちらでもよい。





それに、このシリーズにはオマケがある。





途中から、新しい小説を少しずつ付け足してきた。『団塊の世代の物語』と題している。





先日、BS11で連続している『団塊物語』なる私の番組に幻冬舎の見城徹さんが出てくれた。その時に、この新しい小説の話が出たのだが、「題が悪い」と一刀両断にされてしまった。もっとも、私がそうした小説、戦後とぴったりと重なった団塊の世代の、男女の物語と戦後史がどろどろとないまぜとなった小説を書こうとしている、その意図は大いに理解してくださった。





私も、そうしたものは私でなければ書けないだろうと自負しているのだ。フィールドでプレーしている人間にはそのプレーの歴史的位置づけはできないものだ。





あれも、これがなければ出現しなかった。





次は令和4年、そして令和5年、6年。





さて、その次の年になってしまうまでに終わりになっているかどうか。





「団塊の世代の物語」(5)





「お願いがあるの」





食事が終わって大木が運ばれてきたカプチーノにシナモンの棒きれを差し込んだところで、英子が大木の手元をみつめながら口を開いた。大木は、以前はカプチーノなど飲まなかった。ふつうのコーヒー、でなければエスプレッソ。それが、ある理由があって愛飲するようになったのだった。それほど昔ではない。





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