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「令和5年の年賀状」団塊の世代の物語(7)

Japan In-depth / 2024年8月16日 23時5分

「いいですよ、もちろん。お互いを知るのは、過去になにがあっても、今となっては嬉しいだけ。あなたがどれほど女性と関係していても、もう、それは昔ばなし。私はあなたを掴みとりたいから、すべてを知りたい。





どっちの話のほうが章立てが多いのかしらね」





「そりゃ英子さん、あなただ。そうに決まってる。





愉しみだな、あなたの色恋話」





「二人の未来のために話すんですからね」





「もちろん!英子さん、あなたと僕の二人の未来のために、ですよ」





三津野慎一の第一話





僕が未だ学生だったときのこと、僕は広島と東京とを定期的に往復していた。兄もそうだったから、当たり前のことをしているとしか思わなかった。





飛行機には乗らなかったな。だいぶ値段がちがったのかもしれない。考えもしなかったから。





新幹線は未だ大阪までだったから、乗り換えとなると8時間かかっちゃう。でも、ブルートレインというのがあったんだ。僕がしょっちゅう乗って広島と東京を往復していたのは18歳で東京の予備校に行くようになってから23歳で大学を卒業するまでのことだから、西暦でいうと1965年から70年までということになる。大阪万博の年だ。そのころからブルートレインて呼ばれるようになったらしいけれど、僕はそんな洒落た名前は知らなかったな。





寝台専用の特急が何種類かあって、みんな夕方に東京駅を出るんだ。博多までのがあさかぜ、熊本か長崎までのがはやぶさ、宮崎回りで鹿児島まで行くのが富士で、僕は広島だからどれでもよかった。





それで、ある夏の帰省にそのブルーに塗られた車体の寝台専用列車のどれかに乗ったんだ。横に、鮮やかに一本、クリーム色の線が入っている。とってもしゃれてた。





寝台車ってのをあなたも知っているだろう。





僕には特に懐かしい。中学1年になるとき、1960年、昭和でいうと35年に一家6人全員があさかぜに乗って広島に引っ越したんだよ。それも、時代だね、幅50センチくらいの三段の寝台に二人が抱き合うようにして乗って寝てね。祖母と僕、母と姉、それに父と兄だったかな。兄は一番上の3段目からおっこちちゃって頬っぺたが青くなっていたよ。僕の6歳上だからまだ高校3年だったわけだ。それでも、寝台車に乗れるだけでもとても贅沢だっていう時代だった。





12歳だった僕は寝台列車に乗っての旅ってのが嬉しくってね、朝まだ広島に着くまえに母親にねだって食堂車へ行かせてもらった。お金がもったいないからって一人で行ったの覚えている。トマトジュースが80円だった記憶だ。僕がこの世でトマトジュースを飲んだ初めての日だ。





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