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歴史は変わる!? 『ベルサイユのばら』にある「リアル」と「フィクション」

マグミクス / 2021年10月21日 11時50分

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■オスカルパパとフランス国王の意外な 「リアル」と「フィクション」とは…?

『ベルサイユのばら』は、今なお愛され続けている少女マンガの名作です。革命前後のフランスを舞台に、マリー・アントワネットの輿入れから処刑されるまでが、架空の人物であるオスカルとアンドレの物語をはじめ、史実にフィクションを織り交ぜて描かれています。

 この作品を読んだおかげで、フランス革命の部分だけ世界史に詳しいという人もいるようですが、真実だと信じていたことが実はフィクションだったり、歴史研究が進んで、『ベルサイユのばら』が連載されていた1970年代とは認識が変わっていたりすることもあるようです。

 この記事では、『ベルサイユのばら』にある、信じていたのに実は違っていた、「リアル」と「フィクション」をご紹介します。

●オスカルはいないけど、オスカルパパ(=ジャルジェ将軍)は実存した

 主人公のひとりである男装の麗人、オスカル・フランソワ・ド・ジャルジェは架空の人物です。しかし、オスカルを男性として育てることを決めた父のジャルジェ将軍には、フランソワ・オーギュスタン・オーギュスト・レーニエ・シュバリエ・ド・ジャルジェという、モデルとなった実存の人物がいます。

 作中では、ジャルジェ家は大貴族として描かれていますが、実存のジャルジェが将軍になったのは革命勃発後でした。彼は冷静で思慮深く、果敢な人物で、革命下では多くの反乱を鎮圧したと言われています。そして、王党派の軍人として王室に忠誠を誓い、最後まで王家に尽くし、マリー・アントワネットからも信頼を寄せられました。ルイ16世一家がベルサイユを去り、パリのテュイルリー宮殿に軟禁されてからは、王妃の通信係を務めたとも言われています。

 ジャルジェは国王一家を救出するための計画を立て、資金の調達もしたようです。国王一家がタンプル塔に幽閉され、多くの貴族たちが国外に逃げた後も、彼は危険をおかしてフランスに留まり、ルイ16世の処刑後にはマリー・アントワネットと子供たち、王の妹の救出計画のために奔走。

 全員の救出が無理と分かると、ジャルジェはマリー・アントワネットだけでも逃がそうとしました。しかし、子供たちを置いて逃げることをマリー・アントワネットが承諾せず、この案も実現しませんでした。

 ジャルジェ将軍は2度結婚していますが、いずれも妻はマリー・アントワネットの侍女だった女性でした。そして、マリー・アントワネットが愛したスウェーデン貴族、フェルゼンへの最後の手紙も仲介するなど、実際の歴史上においてもマリー・アントワネットとは深いかかわりがあった人物なのですね。

●マリー・アントワネットの夫、ルイ16世は愚鈍な王ではなかった

『ベルサイユのばら』では、ルイ16世は、ぽっちゃり体系で男性としての魅力は乏しく、人はいいが、王としての威厳や決断力がなく、頼りがいもない、「愚鈍な王」として描かれています。

 しかしさまざまな歴史研究が進むなかで、実はルイ16世は、慈悲深く、聡明な王だったと再評価されているのです。

 当時のフランスの財政は、ルイ14世とルイ15世の放漫財政もあって、すでに腐敗の極みにありました。ルイ16世も財政再建を試みましたが、途中で挫折してしまったようです。それでも、農奴制を廃止したり、プロテスタントやユダヤ人の同化政策をすすめたり、アメリカ独立戦争では宿敵イギリスを破るといった成果もあげています。

 さらに、科学や地理探検にも理解があり、後に彼自身の命を奪うことになるギロチンについても、刃を斜めにすることでどんな太い首も一度で切れるように改良を勧めたのもルイ16世だったと言われています。

 ルイ16世は、ダンスや気の利いた会話、優雅な振る舞いは苦手だったようですが、少年時代から心優しく聡明だったため、家庭教師たちからは名君の器と絶賛されていたそうです。大人になってからも、庶民の家を散歩がてらに見て回り、彼らの生活を知り、苦しみに寄り添おうとし、心優しさは変わりありませんでした。

 民衆を愛した君主であり、妻と家族を愛した夫であったルイ16世は、「愚鈍な王」などではなく、慈悲深く聡明な王であり、数々のスキャンダルによって王妃、マリー・アントワネットが世間を騒がせても、王の威信が地に堕ちるということはなかったのです。

■おさわがせ王妃!? マリー・アントワネットの無駄遣いが国を亡ぼす?

●マリー・アントワネットは散財したが、フランスの財政悪化は彼女のせいではない

『ベルサイユのばら』では、王太子ルイ・ジョゼフ王子が亡くなった際に、葬式台にも困り、ルイ16世が「宮殿にある銀の食器や燭台を売り払って」と、お金の工面を命じるほどフランスの財政は困窮していました。この事態にマリー・アントワネットは、「ベルタン嬢のドレスやポリニャック伯夫人や小トリアノンや…」「舞踏会やオペラやダイヤモンドのアクセサリー」「競馬や賭博……」と自分の無駄遣いを思い出し、「これはいままでのぜいたくの報いだというの…!?」と青ざめるのでした。

 マリー・アントワネットは、「赤字夫人」とやゆされるほど散財したのは事実です。しかし、それが国を崩壊させるほどだったかと言えば、実はそんなことはなく、大きな負担となったのは莫大な軍事費でした。

 フランスでは、ルイ14世、ルイ15世の時代から、対外戦争費による負債が膨らんでおり、ルイ16世が即位した時にはすでに慢性的な財政難にあったのです。そして、積年の敵国であるイギリスの勢力拡大に対抗して、アメリカ独立戦争にかかわってアメリカに軍事支援や海軍力強化のための新軍港を建設などで軍事費が膨大にかかったのが財政困窮の原因でした。

 マリー・アントワネットは、浅はかで贅沢好き、楽しいことだけを追い求める性格だったので、民衆の不平不満のはけ口にされたというところもありそうです。はじめはその美しさやファッションが良くとらえられても、民衆の生活が苦しくなると、そのいら立ちの矛先がマリー・アントワネットに向いてしまったというところもあるのでしょう。

●マリー・アントワネットの宿敵、デュ・バリー伯夫人は悪い人ではなかった

 フランスに嫁いだマリー・アントワネットは、国王ルイ15世の公妾であったデュ・バリー伯夫人と対立します。娼婦や愛妾を嫌っていたマリー・アントワネットは、デュ・バリー伯夫人が娼婦出身であることに対しても嫌悪感を抱き、彼女を徹底的に無視し、声をかけようとしませんでした。この問題がこじれにこじれ、フランスとオーストリアの同盟をもおびやかす大問題にまで発展。ついにマリー・アントワネットが折れ、「きょうは、ベルサイユはたいへんな人ですこと」とデュ・バリー伯夫人に声をかけたのでした。

『ベルサイユのばら』では、マリー・アントワネットはデュ・バリー伯夫人を初めて見た時に、「なんて高慢ちきな態度でくじゃくみたいにあつかましそうに」「すごい肉体美だけれど、下品な女!」という印象を抱き、彼女が誰かと聞かれたオスカルも「王太子妃陛下がお心をとめられるような女ではございません」と答えるほどで、宮廷内で嫌われていたように描かれています。また、デュ・バリー伯夫人のマリー・アントワネットに対する態度も不遜なため、「いじわるキャラ」だと思っている方は多いと思います。

 しかし実際のデュ・バリー伯夫人はというと、愛嬌があって親しみやすい性格で、天真爛漫な明るい女性だったようです。娼婦だったとはいえ、修道院にいたこともある彼女は教養もありましたし、美意識が非常に高く、芸術家たちの擁護もしていたと言われています。

 しかし、1774年4月にルイ15世が天然痘で亡くなると、デュ・バリー伯夫人は、ポント・ダム修道院に追放されてしまいます。デュ・バリー伯夫人の公妾としての宮廷生活は、ほんの5年間ほどで、追放された時には、まだ31歳でした。

* * *

 日本でも、「1192(いいくに)つくろう鎌倉幕府」が今や使えず、中学歴史教科書の多くでは、鎌倉幕府の成立が、1185年に変わりました。このように、フランス革命や歴史上の人物の解釈についても時代とともに変わっているのですね。

(山田晃子)

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