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ひろゆき氏「まともな宗教とカルト宗教で扱い変えるべき」の危険な無知

メディアゴン / 2022年7月18日 23時21分

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藤本貴之[東洋大学 教授・博士(学術)/メディア学者]

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最近、安倍晋三元首相の襲撃・殺害事件をきっかけに、宗教と社会問題がにわかを注目めている。宗教にからむ凶悪事件といえば、1995年前後に発生した地下鉄サリン事件に代表される一連の「オウム真理教事件」が有名である。しかし、事件から30年以上が経過し、その記憶も風化してゆく中で、宗教と社会、宗教と生活に絡む問題は、「宗教を標榜して、騙すのはヤバい」といったぐらい危機感や理解しかされないようになりつつある。

特に日本は「宗教=危険」「宗教=洗脳」といったロジックに陥りがちな国である。いうまでもなく、必ずしも宗教が危険であるわけではなく、もちろん宗教が必ず人を洗脳し、人心を惑わすわけではない。もちろん、犯罪組織化するような宗教団体などは、わずかな例外だけだろう。日本以外の国は、特定の宗教や信仰を持たない方が少数派であるケースが圧倒的だ。「日本以外の国は宗教が生活の中に浸透しているから戦争や犯罪が多い、日本はそれがないから平和」といったような主張をするケースもあるが、宗教の有無と治安の悪さを関連づけるような根拠は、科学的にも歴史的にもない。

そんな中、実業家・ひろゆき氏が「まともな宗教とカルト宗教で扱い変えるべき」とTwittreにポスティングした内容が話題になった。もちろん、「まともな宗教とカルト宗教」の区分などが、非常に困難であることは誰にでもわかる。それどころか、影響力のあるひろゆき氏であるだけに、一歩間違えれば、憲法で保障された思想信条・信教の自由を犯しかねない危険な発想として指摘する意見も散見されている。

カルトといってもそれが意味することは実に多様だ。正統派の宗教から見れば、自分たちとは異なる教派・教団は全てカルトであるといった面もある。少なくとも、宗教改革の時代に、プロテスタント教会ができた当初、創始者マルティン・ルターたちはカトリック教会からしてみれば間違いなくカルトであったはずである。それが今にして見れば、カルトではなく、正統に対して反体制(異端)であった、というだけだ。もちろん、宗教団体が母体となって、大きな犯罪や時件を起こすような犯罪組織化しているケースもカルトと言われる。

言う間もでもなく、オウム真理教に代表されるような「テロ組織化した宗教風団体」や「宗教団体標榜犯罪集団」と、「正統派の宗教から異端視されている宗教団体」は必ずしもイコールではない。前者に対してだけであれば、犯罪組織認定をすることは容易であろうし、海外でもそういった集団への法規制は厳しくなされている。日本でもオウム真理教はテロ組織として「無差別大量殺人行為を行った団体の規制に関する法律(団体規制法)により、公安調査庁の厳しい監視対象になっている。

しかし、後者はどうか。

正統派宗教・教団から異端・カルト視されているからといって、その団体が本当にカルトであるか、犯罪集団であるかはわからない。その判定基準は微妙で曖昧だ。犯罪組織化していないが正統ではない宗教の中には、正統派宗教と教義的な違いから異端・カルト認定されているケースは多い。つまり、教義的に正統ではない=異端だからといって、必ずしもそれが犯罪や強制献金をしているカルト集団とは限らないからだ。むしろ、既存の正統派教団よりも、まともであるケースすらあるにも関わらず、だ。

「まともな宗教とカルト宗教」を分けることの意味は、「ヤバい集団とヤバくない集団を分ける」ということと同義だろう。その意味では、金銭トラブルを起こしている宗教はヤバい、という認定基準もあるだろうが、宗教に限らず、多くの任意団体が少なからず金銭トラブルや人間関係トラブルを持っている。特に、寄付や葬式、祈願といった、目に見えない出費が発生するのが宗教である。金銭トラブルが起きないはずがない。休眠していない限り、地球上全ての宗教が金銭トラブルを抱えているはずだ。

これらを考えれば、「まともな宗教とカルト宗教の区分」が非常に難しく、さまざまな面から見て、事実上不可能であることがわかる。ひろゆき氏による「まともな宗教とカルト宗教で扱い変えるべき」という発言は、「永久機関で無限エネルギーを作ってしまえば、二酸化炭素問題も原子力の問題もすぐに解決するよね」と言っているようなもので、実に無意味で、影響力を考えればただただ誤解を広げるだけの危険な発言であることがわかる。

そもそも、仕組み的な問題以上に、「まともな宗教とカルト宗教の区分」を考える発想自体が、日本では困難であり、危険である。なぜなら、日本では宗教教育がまったくなされていないため、ベースとなる宗教に関する教養や知識が脆弱であり、大手マスコミですら、「その説明、間違えてますよ」とツッコミたくなるような中途半端な情報が、コメンテーターやキャスターと称する人たちの口から溢れているような状態だ。

例えば今回の事件に関する報道であれば、「統一教会では、収入の10分の1を献金するというシステムがある」ということが、金銭トラブルの要因の一つとして方々で解説されていた。しかし、この献金システム自体は、統一教会の異端的な特殊性ではない。なぜなら、統一教会のカルト性は、「収入の10分の1を献金するシステム」にではなく、それを理論的根拠にして、高額な献金へと誘導するというメカニズムにあるためだ。同じように見えるかもしれないが、この部分を理解できるか、できないか、には大きな違いがある。

まず、「収入の十分の1を献金する」というシステム自体は、統一教会に限った制度ではない。これは「什一献金」と呼ばれ、正統派のキリスト教であれば普通におこなわ、推奨されている制度である。統一教会による独自の制度ではなく、世界人口の三分の一が信仰するキリスト教の世界では、あたりまえに推奨されている制度に過ぎない。キリスト教になじみのない日本人からすれば「収入の10分の1を献金?そんなバカな!」と思ってしまうが、キリスト教文化圏の国では生活に浸透した日常的な仕組みですらある。世界的に見れば「死んだら戒名を高額で買う」という日本の慣習の方がはるかに不当であると驚かれるぐらいだ。

統一教会はキリスト教から派生した、キリスト教とは異なる特殊な新興宗教であり、「什一献金」はキリスト教の制度を都合よく流用しているに過ぎない。そして、それを献金の正当性の根拠として、恐怖心を煽り、高額献金へと誘導した段階で、そこに犯罪性や異常性が生まれている。よって、「什一献金」それ自体は、問題でもなければ特殊なシステムでもない。むしろ、キリスト教の世界では「恐怖心を煽って什一献金を強制する教会はヤバい教会。献金を自由意志に任せる教会はマトモな教会」として判断するケースは多い。

しかし、大手マスコミなどでも「統一教会では、収入の10分の1を献金するというシステムがある」と報道されるのを見ると、正統的で伝統的なキリスト教会に通っているクリスチャンまでもがカルトではないか、洗脳されているのではないか、ヤバい人なのではないか、とあらぬ誤解を受けかねず、宗教差別や偏見を産みかねない無知で危険な認識だ。

「まともな宗教とカルト宗教の区分すべき」というひろゆき氏の発想や、「収入の10分の1を献金する制度はおかしい」といったメディアでの解説は、一見すれば的を得ているように感じるが、その実態は、無知に起因した稚拙なものであり、宗教というココロの問題に善悪を持ち込んだり、宗教差別や偏見を生みかねない危険な発想である。

蛇足であるが、そもそも、「まともな宗教とカルト宗教の区分すべき」という意味では、熱狂的なファンを持ち、オンライン動画だけで巨額の富を稼ぎ出すひろゆき氏こそ、事実上、カルト宗教の教祖なのではないか、と感じることがある。億単位の損害賠償を支払うことなく「踏み倒す」という非道なことをやっているにもかかわらず、多くの支持を集めるという現状は、間違いなく「次世代のカルト」であるように感じる。

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