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変革の軌跡~NECが歩んだ125年 第1回 創業者、岩垂邦彦

マイナビニュース / 2024年10月22日 12時0分

その後、エジソン・マシン・ワークスは、エジソン・ゼネラルとなり、交流方式の採用を決定。世界的な動向も交流中心へと大きく変化していったのである。

実は、エジソン氏は、その後、ゼネラル・エレクトリック(GE)を創立した際に、大阪電燈に日本での販売代理権を与えた。また、1895年に岩垂氏が大阪電燈を辞めた際には、岩垂氏個人にその権利を与えるという異例の措置を講じている。直流と交流を巡って、一度は仲たがいした両者だったが、エジソン氏のこの異例の対応は、交流の普及に対する岩垂氏の先見の明を、同氏が高く評価したことが背景にあったと見てとれる。

大阪電燈での事業の立ち上げを軌道に乗せたあと、同社を辞めた岩垂氏は、大阪市内で、個人経営の輸入商をスタート。先に触れたように、エジソン氏が率いるGEの製品に加えて、米ウェスタン・エレクトリック(WE)の代理店契約も結び、さらに業績を伸ばしていった。

1896年、WEの外国部支配人のH.B.セーヤー氏が来日し、生産拠点の開設を含む日本市場への本格進出の調査を開始した。その際、WEの代理店であった岩垂氏などを訪問し、日本市場参入の可能性について聞き取りを行った。結果として、日本で電話機を生産するには、従来の海外進出のような全額出資子会社によるものではなく、日本の企業の資本を入れることが肝要であると判断した。当時の日本のナショナリズム思想を考えると、完全な海外資本では市場には受け入れられないと考えたためである。
新会社の仲介役から創業者へ

1897年に、セーヤー氏の秘書であるW.T.カールトン氏が来日し、日本進出の具体案が示された。ここでは、国内の既存電話機製造会社と提携し、そこにWEが資本参加するという手法を選択。相手先には沖商会(現OKI)をあげた。

同社は、日本で唯一の電話機専門メーカーであり、電話交換局に納入されるWE製品の組立や据付け、修理をすべて行っており、すでに強い結びつきがあったという点も選定の理由のひとつだった。WEにとっては、すでに経営地盤を築き、製造経験があり、技術開発にも熱心な沖商会と組むことが成功の近道だと判断したのだ。

しかし、沖商会はこの提案には、慎重すぎるほどの姿勢で応じた。

前身となる明工舎の創業者である沖牙太郎氏は、すでに電話機事業が、国家有事の際には有用なものになること、創業以来、労苦を共にして成長させてきた従業員の立場を考えると、海外企業と共同出資の新会社に事業を移管することを、すぐには受け入れられなかったのだ。

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