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変革の軌跡~NECが歩んだ125年 第1回 創業者、岩垂邦彦

マイナビニュース / 2024年10月22日 12時0分

また、技術畑出身の岩垂氏自身は、できれば営業職は、ほかの人材に任せたいという意向もあった。

これらの課題を解決する人物が、岩垂氏の頭の中に一人浮かんだ。それが、交流方式を主張したことで、四面楚歌となっていた岩垂氏を、後方から援護した前田氏である。

前田氏は、すでに2年以上の販売経験を持ち、営業面において優れた実績をあげていた。

当時は、東京・京橋で、英国製電気製品などを扱う日電商会を設立し、ちょうど事業が軌道に乗り始めていたところだった。岩垂氏の申し入れに対して、熟考を重ねた結果、新会社設立に参画することを決意。岩垂氏が持つWEの国内販売権と、前田氏が持つ入札資格を組み合わせたビジネスがスタートできる体制が整ったのだ。

もうひとつ大きな課題があった。それは、本社と工場の確保である。このとき、東京には代表的な電機工場が2つあった。ひとつは、弱電の沖商会の工場であり、もうひとつは強電の三吉電機工場であった。工場確保を担当した前田氏は、東京・三田にあった三吉電機工場に目をつけた。沖商会に対抗するには、三吉電機工場クラスの大規模な設備が必要であると考えたからだ。

三吉電機は、日本初の白熱電灯用発電機を生産し、その後、東京電燈をはじめとした各地の電灯会社の機器を一手に納入するほどの勢いを持っていた。だが、日清戦争後の反動不況により、業績が悪化。そうした状況にあった三吉電機にとって、前田氏による買収提案は、まさに「渡りに船」だったといえる。

WEの後ろ盾もあり、4万円の買収費用で、敷地3500平方メートル、工場建坪で2600平方メートル、13棟の建物で構成する広大な生産拠点を手に入れた。そして、これらの資産を持った形で、新会社は、1898年(明治31年)9月1日に、日本電気合資会社として発足した。資本金は5万円。岩垂氏が4万円、前田氏が1万円を出資した。

しかし、課題もあった。設備が古いため、電話機のようなデリケートな製品を作る設備としては不適当であり、同時に過剰な設備も残っていた。実際、2台の蒸気機関のうちの1台は一度も運転しないまま売却してしまったという状況だった。とはいえ、稼働中だった大規模な生産拠点を手に入れたことは、ただちに競争力を手に入れることにもつながり、他の方法ではできなかったともいえる垂直的な立ち上がりをみせることになった。

岩垂邦彦という人物

なお、「日本電気」の社名は、前田氏が提案したものだ。ほかに、東京電気や東洋電気、東邦電気などの候補があったが、岩垂氏が、永続性がある名前として、日本電気を選んだ。隆々たる発展の道をたどる日本の代表的な電気会社というプライドを持ってつけられた名称だという。

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