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変革の軌跡~NECが歩んだ125年 第1回 創業者、岩垂邦彦

マイナビニュース / 2024年10月22日 12時0分

呼び方は、「ニホンデンキ」ではなく、「ニッポンデンキ」が正しい。設立当時は、「ニホン」よりも、「ニッポン」と発音することが多く、当時の読み方に合わせたと考えられる。

さらに、NECの名称も創業当初から使われている。NECは、英文名のNippon Electric Company, Limitedの略称であり、現在もコミュニケーションネームとして一般的に使われている。海外では「ネック(NEC)」と呼ばれることも多い。

様々な文献を探しても、NEC創業者である岩垂邦彦氏に関して残っている語録やエピソードは少ない。少ない資料のひとつに、日本で最初の電気専門雑誌である「電気之友」の1912年3月1日号に、岩垂氏を表現した言葉が記されている。

「温厚着実、孜々(しし)として社務を統轄し、隠然君子の風あり」

この文章からも、岩垂氏が、穏やかで、落ち着いた態度で、確実に物事を進める人物であること、熱心に業務に専念すること、表立って目立つことはないが、内面的には高い道徳性や品格を持っていることが示されている。

また、NECの70周年社史には、岩垂氏の一日が記されている。

「勤務時間は朝8時から夕方5時までだが、職工の出勤時間である朝7時に出勤することも珍しくなく、自らタイプライターを打ち、英文の手紙を書き、仕様書の英文を作り、外国との交渉に必要な文書を作り、合い間、合い間に工場を監督し、終わってはまたタイプライターに向かうというせわしさであった。さすがの前田も、『朝から晩まで続けて倦まない根気のよさには、ただ感嘆のほかない』とあきれるほどであった」

事業に打ち込む岩垂氏のまっすぐな姿勢が感じられる。

岩垂氏は、1926年10月までNECの専務取締役を務めたのち、新設した取締役会長に就任。その後も経営に携わったが、1929年9月には会長職を退いた。1941年に84歳で逝去した。

2009年11月には、岩垂氏の母校である福岡県立育徳館高校に、記念碑が建てられた。

同校は、小倉・小笠原藩の藩校からスタートし、265年以上の歴史を持つ。岩垂氏は、プールがなくて不便な思いをしている後輩たちのために、プール建設資金を提供したり、卒業生の学資を援助したりするなど、同校に貢献。記念碑は250周年事業のひとつとして建てられたという。

(つづく)
(大河原克行)



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