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写植機誕生物語 〈石井茂吉と森澤信夫〉 第53回 【茂吉】印字部の誕生

マイナビニュース / 2024年11月5日 12時0分

○精神的教育

1933年 (昭和8) ごろには、印字部は映画タイトル専用機1台を含めて4台の写植機を常備し、男子6人、女子4人の従業員を置くほどになった。ほとんどの社員は住みこみで、15歳から20歳に満たない若者だった。[注5]

このころ「明朝体」をはじめとする原字の制作に取り組んでいた茂吉は、黒い背広を着て机に向かい、朝早くから深夜1時、2時まで、毎日一心に原字を描いていた。[注6] 従業員に彼ほど長時間の仕事をさせることはなかったものの、若い従業員たちは長時間におよぶ毎日の仕事にへこたれて、茂吉の許しもなく、別棟前にあった宿舎にしだいに早く帰るようになり、それが2人、3人、4人……とそろうと街に夜遊びに出かけるようになった。度重なってとうとう茂吉は彼らを別棟に整列させ、「東照宮御遺訓」を諳んじて戒めた。「東照宮御遺訓」は、徳川家康が遺したとされることばだ。

「人の一生は重荷を負って遠き道をゆくが如し
いそぐべからず 不自由を常とおもへば不足なし
こころに望おこらば困窮したる時を思ひ出すべし
堪忍は無事 長久の基 いかりは敵とおもへ
勝事ばかり知て負くる事をしらざれば害其身にいたる
おのれを責て人をせむるな
及ばざるは過たるよりまされり」
[注7]

ふだんは寡黙な茂吉だが、いざ訓戒をはじめると長く、話は何時間にもおよんだ。1932年 (昭和7) 秋、印字部設立翌年に入所した佐治為男 (のちの光画製版株式会社社長) は、たまらず数カ月後に、同僚3人とともに逃げ出してしまったという。[注8]

そういう状況もあってだろうか、茂吉はしだいに、印字部門の若き従業員たちをたんにオペレーターとして養成するだけでなく、礼儀作法を教え、精神的教育をほどこすようになっていった。

この時代、たとえば茂吉の恩人である共同印刷社長の大橋光吉は、自身が経営していた博文館石版部精美堂において1922年 (大正11) に社内に精美堂印刷学校を設立し、みずからの手で若手社員を養成して幹部として引き立て、多くの人材を輩出していた。その精美堂から独立して東京活版所 (のちの精興社) を起こした白井赫太郎が、東京府西多摩郡霞村根ケ布 (現・東京都青梅市根ケ布) に工場を設立し、工場内に精華学舎という徒弟学校を設立したのは1932年 (昭和7) のことである。白井は「よい仕事をするのには、まず知識を広め、人格を磨かねば」と言っていたという。[注9] 写真植字機研究所の印字部門がおのずと若手社員の人格面での育成もおこなうようになっていったのは、時代的な背景もあったのだろう。
○「奥に呼ばれる」

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