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写植機誕生物語 〈石井茂吉と森澤信夫〉 第53回 【茂吉】印字部の誕生

マイナビニュース / 2024年11月5日 12時0分

[注2] 「文字に生きる」編纂委員会 編『文字に生きる〈写研五〇年の歩み〉』写研、1975 p.24脚注 1934年 (昭和9) ごろまでは印字者、打字者の名称で呼ばれていたが、1935年 (昭和10) ごろから茂吉が「写植オペレーター」と呼び始めたという。

[注3] 『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 pp.118-119、「文字に生きる」編纂委員会 編『文字に生きる〈写研五〇年の歩み〉』写研、1975 p.24

[注4] 野ばら社は、1929年 (昭和4) 創業の出版社 ( https://www.nobarasha.co.jp/nobarako/ )。図画図案、音楽、書道の書籍を出版している。『標準軍歌集 : 附録・陸海軍喇叭譜』(画作者 今村嘉吉、編輯兼発行者 志村文蔵、発行 野ばら社 / 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1121351) は、印字部設立初期の例として貴重な書籍。この早い時期に野ばら社が写真植字で自社の出版物を印刷した理由は具体的にはわからないが、創業者の志村文蔵は徳富蘇峰や竹久夢二など文化人・著名人と交流が深く、あたらしい技術を試したり、取り入れることに積極的な人物だったという。また、野ばら社の所在地 (東京瀧野川西ヶ原68) は当時の写真植字機研究所から2kmほどの距離にあり、近い地域であった。近隣地区であることから写真植字機研究所と知己を得た志村が、写真植字を使ってみようとかんがえたのだろうか。あるいは、1932年 (昭和7) 3~5月に上野公園で開催された発明博覧会を、新しもの好きの志村が見に行き、写真植字機を知った可能性もかんがえられる。

同1932年2月に野ばら社から刊行された中綴じ版の『標準軍歌集』は、カラーの挿絵をオフセット印刷し、文字はその上から活版印刷したものだった。志村文蔵は、カラー印刷の挿絵と文字が一緒に刷れるオフセット印刷で本書籍をつくりたいとかんがえ、写真植字を試したのかもしれない。しかし、印刷を手がけていた北陽印刷は1933年 (昭和8) 12月に解散 (大蔵省印刷局 編『官報』1934年01月25日、日本マイクロ写真、昭和9年、国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2958590/1/12?keyword=%E5%8C%97%E9%99%BD%E5%8D%B0%E5%88%B7 2024年10月15日参照) 。このためか、『標準軍歌集』は、1935年 (昭和10) に刊行したもので印刷所が変わり、これにともない、文字は写植から活字に戻っている。(取材協力:野ばら社 大橋真生氏、2024年10月4日)

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