1. トップ
  2. 新着ニュース
  3. IT
  4. パソコン

写植機誕生物語 〈石井茂吉と森澤信夫〉 第53回 【茂吉】印字部の誕生

マイナビニュース / 2024年11月5日 12時0分

〈仕事に向うときは、身も心もすべて打込んでやらねばよりよい結果が得られないし、そのためにはふだんの生活もきちんとしておかねばならない〉[注10]

それが茂吉の信念であり、ずっと実行してきたことだった。そして茂吉は、従業員にもその追随者であることを求めた。

印字部門の設立によって、10人足らずのちいさな町工場だった写真植字機研究所の従業員はすこしずつ増えていった。茂吉は、ほとんどが住みこみだった若い従業員の生活の規範として、つぎの五項目を掲げた。

一、男子は髪を丸刈りとすること
一、質素を旨とすること
一、禁酒、禁煙
一、映画館・喫茶店への出入り禁止
一、みだりに流行歌を口ずさんではならぬこと [注11]

従業員は茂吉を「先生」と呼んだ。社長と社員の関係ではなく、そこには師と門弟のような感情があった。

住みこみ従業員の一日は、毎朝の仕事場のふきそうじから始まった。そうじが終わると先輩順に並んで食事を済ませる。食器は自分で洗って戸棚にしまい、最後の者はお膳をたたんで「ごちそうさま」のあいさつをした。休日は第一・第三日曜のみ。こうした生活を毎日つづけた。当時をふりかえってこの日々が綴られた1965年 (昭和40) ですら〈現在からみれば思いもよらぬことである〉というのだ。[注12] ましてや2024年のいまから見れば、信じられないくらしだろう。

茂吉たちの自宅 (母屋) の玄関には押ボタンがあり、これを押すと印字部のある別棟のベルが鳴るしくみで、このベルで主任以下を数で呼び出せるようになっていた。呼び出されると、従業員たちは茂吉の部屋に向かう。彼らはこの呼び出しを「奥に呼ばれる」と言い、ベルの音に戦々恐々としていた。

〈呼ばれて長い時間がたってから、ひざ小僧をさすりさすり工場へ帰ってくる仲間をたびたび見かけたものだった。それは先生の薫陶の時間が長いので、正座から解放されても容易に歩行できなかったからである。わたくしも一、二度そうした説教を賜わったことがあるが、そのときのことは今も一言一句も忘れてはいない。先生は多事多忙の身でありながら、われわれ従業員には懇々と教えを説かれ、そのための時間のロスは夜とりもどすという方法であった〉

写真植字機研究所の社員だった笠井弘康 (のちに有限会社弘陽写真タイプ社代表取締役) は、こんなふうに証言している。[注13]

奥に呼ばれた従業員が部屋に入ると、それまで一心に原字制作に取り組んでいた茂吉はペンを置き、やおら訓戒をはじめた。先述の「東照宮御遺訓」をはじめ、人間の心構えにまでおよぶ無類に長い訓話をおこなった。茂吉のこうした修養主義は、明治生まれの気質や生い立ちによるものでもあるが、ふたりのこどもを亡くし、写真植字機開発の困難な道をゆくうちに、ますます強固なものとなっていた。修養道場一燈園をもつ西田天香が主唱する「勤勉・節約・奉仕の生活」に共鳴するようになったのも、このころだった。[注14]

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング

複数ページをまたぐ記事です

記事の最終ページでミッション達成してください