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写植機誕生物語 〈石井茂吉と森澤信夫〉 第53回 【茂吉】印字部の誕生

マイナビニュース / 2024年11月5日 12時0分

写真植字機研究所の仕事・生活、いずれの指導もきめ細かくきびしいものだった。生活指導の面では、几帳面で潔癖ないく夫人が、茂吉のよき協力者となった。[注15]
○厳しさと愛情

もちろん若い従業員たちのことだから、なかには反抗する者もいた。

1937年 (昭和12) に写真植字機研究所に入所した飯倉基二郎 (のちに細川活版所厚生課長) はこんなふうに綴っている。

〈ぼくなどは、あまり成績のよいほうでなく、いくたびかしかられ、そしてしかられては腹を立て、みんなと共同謀議をこらし、あるときは腹の痛くなるほど飯を食って番狂わせをさせたり、また、この反対を敢然とやったりして、女中が奥さんにあわてて報告する様子を見て、かげでひそかに喜んだのであった〉[注16]

しかしこんな悪童たちも、一部には逃げ出す者もありはしたが、おおむねは茂吉の意を理解してついていった。それは、茂吉といくの厳しい指導の根底に流れる愛情を感じていたからだ。茂吉の没後にまとめられた『追想 石井茂吉』(写真植字機研究所 石井茂吉追想録編集委員会、1965) で、写真植字機研究所の元社員たちは口々に「厳しいなかに深い愛情があった」と綴り、当時の教えがのちにずいぶん役に立ったと振り返っている。

いくと茂吉は周囲がうらやむほどに仲睦まじく、茂吉はたびたび「ねえお前!」といくに語りかけた。従業員たちは影でこっそりその口まねをして、顔を見合わせてほほえみあった。[注17]

茂吉は、ときには夜遅くまで仕事に取り組む従業員に50銭銀貨を渡して今川焼をいっぱい買ってこさせて食べさせたり、彼らの部屋にりんごを放りこんだり [注18] 、夏は冷たいもの、冬はあたたかいものを残業中の従業員と一緒に食べたりもした。 [注19] あくまでも家庭的なあたたかさと、若い従業員たちの成長を期待するおもいがそこにはあった。

こうした印字部門の存在は、その後の写真植字機の普及と市場開発に、おおきな役割を果たしていった。

(つづく)

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本連載の書籍化に興味をお持ちいただける出版社の方がいらっしゃいましたら、メールにてご連絡ください。どうぞよろしくお願いいたします。
雪 朱里 yukiakari.contact@gmail.com

[注1] 伊藤六郎「技術と精神の指導者」『追想 石井茂吉』写真植字機研究所 石井茂吉追想録編集委員会、1965 p.15、笠井弘康「生前の師の人望を慕って」同書 p.42、本山豊三「昇仙峡の松よりも美しく」同書 p.159

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