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「理」なき殺し合いの怖さ - 酒井啓子 中東徒然日記

ニューズウィーク日本版 / 2014年7月29日 10時26分

 ラマダン(断食)月が終わった。今日(7月28日)からイード・アル=フィトルというラマダン明けの休日が始まり、イスラーム教徒はお正月のように、口々に「今年もおめでとう」と祝い合う。子どもたちに衣服を新調し、連休を利用して菓子折りもって親戚回りをするのも、お正月みたいだ。

 だが、今年ほどお祝いムードどころではない年はない。イスラエルのガザ攻撃によってパレスチナ側の死者はすでに1060人を超え、イラク北部を実効支配したイスラーム国はキリスト教徒住民を追い出し、歴史的遺跡を次々に破壊している。あまり注目されていないが、三年前にNATOが介入してカダフィ政権を倒したリビアでは、本格的に内戦状態と化し、欧米諸国はこぞって自国民の退去を呼びかけるほどに武力衝突が頻発している。

 ラマダン月といえばイスラーム暦のなかでも最も神聖な月のひとつなので、ムスリム同士の戦争の場合、ラマダン月だけは休戦にすることが一般的だった。湾岸戦争やイラク戦争など、欧米諸国がイスラーム諸国を攻撃する場合でも、ムスリムの神経を逆撫でしてはと考えて、開戦時期を慎重に判断した経験がある。それだけムスリムにとってラマダン中の戦争は望ましくないと認識されてきたので、エジプト軍がラマダン月に1973年の第四次中東戦争を始めたときには意外な印象を持たれた。だが、逆にそのぐらいの奇襲をしかけなければイスラエルに対する勝機はない、と考えるほどに、アラブ側は追い詰められていたということだろう。

 しかし、今年のラマダン中の相次ぐ戦闘に、そんな配慮は全く聞こえてこない。イスラエルの砲撃で死亡した子供たちが、本当なら新しい服と靴を履いて断食明けのご馳走を楽しんでいるはずのお祝いの日だったのに、といったイメージすら浮かんでこないほど、容赦ない暴力が吹き荒れている。

 なにが見る者の心を暗くしているかというと、イスラエルであれイラクであれ、理のない暴力の底のなさだ。理があって振るわれる暴力であれば、暴力に至る前のどこかの過程を直せば暴力を正せる可能性が見える。暴力に寄らずして彼らが求めるものを、政治であれ経済であれ外交であれ、彼らに非暴力で提供できれば、解決策は見えるのかもしれない。だが今吹き荒れている暴力には、目的と理が見えない。

 イスラエルの空爆が、イスラエル人少年三人の拉致殺害事件に端を発していることは、前回のコラムで書いた。だが、空爆の過程で、その事件の背景にハマースは関与していないことが明らかになった。にもかかわらず、事件で火がついた、イスラエル社会のなかの「アラブを殺せ」の大合唱はやまない。何を具体的な目的にしているのかよくわからないイスラエルの空爆は、今では「ハマースがイスラエル本土までトンネルを掘ってイスラエルの安全保障を脅かしているからこれをつぶさなければならない」とのロジックで、あたかも理があるように報じられている。

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