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コフィ・アナン負の遺産──国連はなぜルワンダ虐殺を止められなかったのか?

ニューズウィーク日本版 / 2018年8月27日 16時0分

<元国連事務総長コフィ・アナン逝去、その功績と負の遺産>

元国連事務総長(1997年~2006年)のコフィ・アナン氏が、8月18日に逝去した。2001年にノーベル平和賞を受賞し、引退後もシリア紛争やロヒンギャ危機の解決に尽力したために、その功績をたたえる声が広がっている。

その一方で、アナン氏が国連事務次長平和維持活動(PKO)担当だった1994年に、国連がルワンダのジェノサイドを止めることができなかったという負の遺産も有名である。当時、現地にPKOが展開中だったのにもかかわらず、PKOを増員して現地の住民を保護するどころか、ベルギー部隊は撤退し、他の人員も縮小したのである。3カ月の間に80万人のルワンダ人が殺戮され、ルワンダ政府は機会がある度に「国連は、国際社会は、ルワンダを見捨てた」と非難し続けてきた。

このルワンダにおけるアナン氏とPKOの失敗談はよく知られているが、なぜ、どのように失敗したのかは十分に理解されていないようである。アナン氏の名誉のためにも、また今後の紛争解決法を検討するためにも、その背景を簡単に説明しよう。

1990年10月、少数派ツチ主導の反政府勢力、ルワンダ愛国戦線(RPF)が隣国ウガンダからルワンダに侵攻してから、多数派フツ主導の政府とRPFの間で内戦が起こり、1994年まで続いていた。1993年8月の和平合意後、同年11月に国連PKO(国連ルワンダ支援団、UNAMIR)の派遣が開始した。UNAMIRの任務は、従来型の平和維持活動と停戦監視であったが、兵力は全く不十分であった。その理由は、ソマリアPKOでの米軍の失敗と関係している。UNAMIRの派遣の前年に、米軍がソマリアのPKOに派遣されたのだが、1993年に18名の米軍兵士を含む数カ国のPKO兵士が殺害された。その後、米軍はソマリアから撤退したが、それ以降、安保理、特にアメリカはPKOに対して消極的になってしまった。

1994年1月、UNAMIRのダレール司令官からニューヨーク国連本部のPKO局に、ファックスが届けられた。その内容とは、下記の通りである。現地のある情報提供者によると、ツチの絶命計画があるという疑いを持っていること。彼の配下の者が、20分以内に1000人のツチを殺害できること。そして、主要な武器庫についての情報を提供する用意があること。



ダレール司令官は武器庫の視察を提案したが、アナン氏は、安保理にもUNAMIRにも、その権限はないことを指摘した。その上で、この情報を在ルワンダのフランス、アメリカ、ベルギー大使館、そしてルワンダ大統領から確認するように助言した。アナン氏は、その後起こったジェノサイドを振り返ると、なぜそのような助言をしたのかと自問したとのことだが、当時PKOを取り巻いていた全ての間違いを想起するに、これ以外の結論にはたどり着くことはできなかったという。何しろ、当時ルワンダの同盟国のフランス以外の安保理国は、ソマリアやボスニアにおける複雑で大規模な活動にてこずっている状況で、ルワンダのような無名な国に介入することにほとんど関心がなかったからである。

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